マンガ
信長協奏曲
白竜
『FAIRY TAIL』
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パク・ソヒ著、佐島顕子訳の韓国漫画『らぶきょん LOVE in 景福宮』(新書館)が、2月24日発売の第27巻で完結した。『らぶきょん』は韓国ドラマ『宮 -Love in Palace-』の原作であるが、漫画はドラマとは異なる奥行を見せた。
『らぶきょん』は現代の韓国に皇室が存続していたら、という架空設定でイマドキの女子高生シン・チェギョンが皇太子妃になるというシンデレラ・ストーリーである。ドラマが日本でも放映されるや、『冬のソナタ』など中高年中心であった韓流ブームを少女にまで広げた(林田力「通販でゲットできる! 韓国ドラマのヒロインのファション大考察」日刊サイゾー2011年8月9日)。
原作以上にドラマで知られている作品であるが、原作には原作の味がある。ドラマはラブコメを基調にしながらも、シリアスなシーンではシリアスに徹し、視聴者を泣かせた。これに対して漫画はシリアスなシーンでもギャグや作者の突っ込みが入り、シリアスに徹していない。ドラマに感動した向きには残念な演出になるが、お涙頂戴で安易な人気取りを目指さない作品の芯の強さが存在する。
ストーリーはドラマ以上に深刻である。皇太子夫妻は完全に破局し、離婚する。一般人に戻ったチェギョンには新しい彼氏もできる。これが最終巻の開始した状況である。愛する二人をもってしても、皇室という制度が高い壁となっている。シンデレラ・ストーリーで終わらない、社会の壁にぶつかって葛藤する現代女性の物語になった。
ドラマでは渋い父親になっている皇帝であるが、漫画では若作りで、アイドル好きという属性もある。チェギョンとシン王子、ユル王子、ミン・ヒョリンら若者中心の物語であったドラマに対し、漫画では皇帝が義姉との愛憎入り混じる対決に主体的に関わり、皇帝と皇后の物語にもなっている。
ドラマでは最後に改心して身を引くというステレオタイプな悪役のユル王子母子であったが、マンガでは過去の罪を直視しながらも、ふてぶてしさを保っている。このポジションは珍しい存在である。一般に敵役は過去を反省せずに悪事を繰り返す悪人か、罪を認めて主人公の信奉者に豹変する節操なしに二極化する傾向がある。
ドラマでは人気歌手のキム・ジョンフンが演じ、シン王子派とユル王子派に人気を二分するほどの人気があったユル王子であったが、ユル王子派からすればユル王子が可哀想すぎて救われない展開であった。マンガでもユル王子のラストは自意識過剰すぎて別の意味で可哀想であるが、その自信と明るさは救いである。(林田力)
浦沢直樹がストーリー共同制作者に長崎尚志を迎えて『モーニング』に連載中の漫画『BILLY BAT』第8巻が、2月23日に発売された。歴史的事件の背後に存在するコウモリ・ビリーバットの謎を描くミステリー作品である。
ケヴィン・ヤマガタら登場人物達の奮闘も虚しく、歴史通りにケネディ大統領は暗殺される。暗殺犯はオズワルドと断定され、そのオズワルドも暗殺される。過去を舞台としたSF作品は歴史のIFが醍醐味であるが、その結果として史実から離れすぎると物語が収拾つかなくなる。ケネディ暗殺の顛末をあっさりとまとめたことは物語が現実の一断面らしさを失わない効果を持たせる。
ヒロイン的存在のジャッキー・モモチは浦沢作品の女性キャラに新たな魅力をもたらした。浦沢直樹は『YAWARA!』の猪熊柔や『20世紀少年』の遠藤カンナなどバイタリティ溢れるカッコいい女性を描いてきた。これに対してジャッキーは脱力系である。現代は『YAWARA!』連載時のバブル経済期のイケイケとは異なり、閉塞感漂う時代である。謎を追及するキャラクターらしからぬジャッキーの脱力ぶりは、肩肘張って綺麗事を主張する女性キャラクターに食傷気味の読者を惹き付ける。
舞台は再び日本に移る。畳にも座り慣れないという日系3世ジャッキーの日本人離れしたスタンスが新鮮な笑いを誘う。外見は日本人と変わらないが、アメリカで生まれ育ったジャッキーにとって日本は異郷でしかない。日本人は日系人ということで勝手に日本人と同じ感覚を期待しがちである。かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』では米海軍の空母の艦長に日系人が登場するが、自分が日系人であることの意味を問い続ける存在に描かれた。それに比べるとジャッキーは自然体である。
舞台が日本に戻ったことで戦国時代の忍者のエピソードが意味を持ってくる。当初、『BILLY BAT』は下山事件という戦後史の闇に光をあてる作品として注目された。しかし、その後に続いた忍者のエピソードは現代史を楽しみにしていた読者を裏切るものであった。
浦沢作品では『MONSTER』や『20世紀少年』でも過去と現在のエピソードが同時進行し、長い作品の中で少しずつ意味が分かっていく手法が採られる。その点で最初は意味が分からなくても当然であるが、あくまで『MONSTER』や『20世紀少年』では同じ登場人物達の過去と現在で一つの物語の中の話と理解できた。これに対して『BILLY BAT』はイエス・キリストの磔のエピソードが登場するなど話が飛びすぎている。
ようやく第8巻で戦国時代の巻物が本編に結び付いた。この巻でも戦国時代のエピソードが挿入されるが、どれもコンパクトにまとめられている。スピードアップした展開に期待したい。(林田力)
『代紋TAKE2』木内一雅原作、渡辺潤作画のヤクザ漫画である。海江田組組員・阿久津丈二は、うだつの上がらないチンピラで、弟分からも舐められる始末であった。鉄砲玉にさせられた挙句、自分が撃った弾丸の跳弾に当たり、あっけなく死亡する。ところが、何故か10年前にタイムスリップして人生をやり直す。
誰しも「あの時、別の選択をしていれば」と思うことはある。東急不動産だまし売り裁判でたとえるならば「東急リバブルからマンションを購入しなければ」となる。ゼロゼロ物件被害者ならば「ゼロゼロ物件で賃貸借契約しなければ」となる。
そのような人生のIFを『代紋TAKE2』では丁寧に描いていく。うだつの上がらないチンピラに過ぎなかった主人公はヤクザとして頭角を現していく。これまでの惨めな自分とは決別し、これからは金の代紋を目指して極道をひた走る。画がヤンキー漫画風であるために拒否感を抱く向きもいるかもしれない。しかし、ヤクザの盃関係や仁義を綿密に描いている。(林田力)
森恒二『デストロイアンドレボリューション』(集英社)は超自然的な能力を持つ高校生が日本社会を変えるためにテロを起こす物語である。主人公マコトは行き場のない怒りと孤独を抱える高校生である。驚異的な能力を身に付けた彼は理不尽な日本社会に破壊的な革命を目論む。
主人公が超自然的な能力を持ち、それを使って社会を変えようとする展開は定番である。代表例として『DEATH NOTE』がある。一方で本書の特徴は主人公が自分の力を用いて積極的に何かをしようとする夜神月的な存在ではないことである。主人公は受け身な人物で、計画は夜神月的存在の同級生が立てている。主人公は同級生の計画が完全に正しいものか葛藤する存在である。
現実社会を舞台にした作品において、超自然的な能力は作品世界のリアリティを破壊しかねないものである。たとえば超自然的な能力を発揮する道具を偶然拾うという展開は、いかにも漫画的である。これに対して本書では主人公のような受け身の人物が超自然的な能力を持つことが説得的に描かれている。(林田力)
森恒二『デストロイアンドレボリューション』第2巻では主人公マコトらのテロが本格化する。目撃者も痕跡も残さず、次々と巨大建造物を破壊していく。数あるテロのターゲットの中で主人公らが巨大建造物を選択したことは興味深い。「コンクリートから人へ」を掲げた民主党が国民の圧倒的な支持を得たことが示すようにコンクリート建造物は現代日本において社会悪の象徴である。
テレビ局の挑戦を受けるなどテロ活動は社会の注目を集めるようになったが、一方でマコトは煮え切らない態度である。マコトは同級生との人間的な幸福を見つけ、心は揺れる。あくまでテロに対しては抑制的な手法を厳守していたマコトであったが、幸福を侵害するヤンキーには怒りを爆発させる。ここには悪を憎む一つの正義の価値判断が表れている。
これまで日本社会には社会の屑とでも言うべきヤンキーに甘過ぎた面がある。それが市川海老蔵に重傷を負わせた関東連合の元暴走族のような無法者を生むことになった。この点でヤンキーに対しては人体に直接攻撃する主人公は小気味良い。
しかし、主人公が正義の行動をするだけでは作品として面白みに欠けることも否めない。ここで活動の主体が主人公から、よりラディカルな思想の持ち主に変更される。能力の使用に躊躇がない人物の暴走が予感される展開となった。(林田力)
安彦良和『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』第23巻「めぐりあい宇宙編」は最終巻である。『THE ORIGIN』ではアニメと比べて政治的な背景を丁寧に描いている。アニメではキリシア・ザビがギレン・ザビを殺害して、あっさりと全権を掌握した。これに対して『THE ORIGIN』ではア・バオア・クーでキリシア派とギレン派に分かれて内戦を繰り広げる。それによってジオン・ダイクンの遺児であるセイラ・マスの出番も生まれる。
伝統的なガンダムの世界観は現代人には受け入れ難い面がある。主人公アムロ・レイは大局的に見れば腐敗した連邦の歯車となっている。これに対して21世紀のガンダムである『機動戦士ガンダムSEED』では主人公は既存の権力に刃向かい、対立する何れの陣営にも属さない清々しさがある。その次の『機動戦士ガンダム00』では主人公達は使命感を持ったテロリスト集団である。
これらに比べると初代ガンダムには組織の言いなりになる時代遅れ感が付きまとう。特殊日本的集団主義が健在であった昭和の作品である。この大枠は変わらないが、『THE ORIGIN』ではアムロとホワイトベースのクルー達という個人と仲間達の物語として上手にまとめた。連邦という社会悪は残り、世の中は変わらないが、それとは別次元の物語として成立している。(林田力)
藤原カムイ『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章 紋章を継ぐ者達へ』は大人気RPGゲーム「ドラゴンクエスト」の世界を舞台とした漫画である。この巻ではオーブを手に入れるため訪れた地でアロスとアニスが再会する。各々の目的を果たすために二人は対峙し、圧倒的な敵も出現する。
『紋章を継ぐ者達へ』は魔王という明確な敵と戦う物語ではなく、人々が消え、呪文が失われた謎を解明する物語である。バトルよりもミステリー要素が強い作品である。そこにもどかしさを感じる読者も少なくない。これに対して第13巻は転換点である。
これまでの単行本の表紙は青を基調とするが、第13巻は黄色である。過去にも第7巻が赤い表紙になっており、そこでは物語の大きな転換点となった。第13巻も同じである。明確な敵との戦いが発生し、敵の狙いも明らかになった。主人公サイドの人物にも大きな変化が生じる。ストーリーのテンポが早まっている。(林田力)
北原星望原作、原哲夫画『いくさの子〜織田三郎信長伝』は織田信長を描く歴史漫画である。本能寺の変で幕を開け、信長の誕生に遡る。第1巻の中心は吉法師と呼ばれる子ども時代が描かれる。この時期から信長の天才性が示されるが、海賊に誘拐されるというオリジナリティあるエピソードになっている。
信長の父親の信秀の代から尾張の織田弾正忠家は駿河の今川家と犬猿の仲になっていた。その理由として『いくさの子』は伊勢湾への入口を抑えた織田家が今川家の海上交易を妨げる存在になっていたとする経済的視点をクローズアップする。政治や農業中心の伝統的な歴史観からは新鮮である。『花の慶次』や『影武者徳川家康』で道々の者を取り上げた原哲夫らしい歴史観である。
原哲夫は『北斗の拳』のケンシロウや『花の慶次』の前田慶次ら圧倒的な強さを持った主人公を描いてきた。魅力的なヒーロー像を提示したが、あまりに完璧すぎて現実から乖離し、感情移入の対象としては物足りなかった。
これに対して吉法師には圧倒的な強さはない。少年を集めてと戦うことは一見すると無謀なチャンレンジャーに見える。しかし、武器を工夫するなど勝算を考えての行動であり、「負け戦こそ面白い」という前田慶次とは異なる。実際、吉法師は不利になると逃走している。読者にも勇気を与えるヒーローである。
『いくさの子』第2巻も第1巻に続いて吉法師と呼ばれた子ども時代の話である。末尾で元服して三郎信長と名乗る。吉法師は軍略に非凡な才能を発揮する。父親の織田信秀や守役の平手政秀は吉法師の非凡さを認めている。「うつけ」は敵を油断させる方便との設定である。この歴史解釈は斬新ではないが、伝統的な信長観の中で新鮮味がある。
この巻では信長の初期の強敵となる今川義元が登場する。公家風に描かれることが多い義元であるが、本書では公家色を出しながらも、常在戦場の心意気の武人として描かれる。勝者の歴史観に立って義元を負けるべくして負けた存在との評価もあるが、それでは義元に勝利した信長の凄さを描きにくい。強大な敵に寡兵で勝利したからこそ信長の才覚が示される。武人として魅力のある義元像を提示することで信長のドラマも盛り上がる。(林田力)
福本伸行『無頼伝 涯』は『週刊少年マガジン』に連載されていた漫画である。冤罪に陥れられた少年・工藤涯の自らの無実の証明と人権無視の更生施設「人間学園」からの脱獄するための闘いを描く。ラストの囚人達への犯行の呼びかけは、独裁権力に対する市民運動家の勇気と重なる。
人間を犬扱いする人間学園の狂気は福本作品ならではの想像力を発揮している。読者がトラウマになるような設定である。『週刊少年マガジン』連載時は人気が出ずに打ち切りとなった作品であるが、このような作品が少年誌に連載されたこと自体がチャレンジャブルである。
作者は『賭博黙示録カイジ』のようにギャンブルや駆け引きを得意とするが、この作品は冤罪を晴らし、社会悪と対決し、自由を獲得するストレートな結末となった。悪人はどこまでも悪人という明快さがある。これは林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』と同じである。表面的に社会派を気取るならば悪人側にも事情があるというようなことを書きたくなるが、そのような甘さでは社会悪を描けないことも事実である。
武論尊原作、池上遼一画『SOUL 覇 第2章』(小学館、2012年)は劉備を倭人とする異色の三国志である。元々は『覇-LORD-』という名前の作品であったが、倭軍の上陸という新展開を迎えるにあたってタイトルを一新した。
『覇-LORD-』の世界では劉備は残忍な人間であり、倭人の燎宇に殺害され、この燎宇が劉備を名乗っている。関羽や張飛と桃園の誓いをする点は三国志と同じであるが、この二人は横山光輝の『三国志』で描かれたような圧倒的な強さはない。曹操が後漢の献帝を殺害してしまうという史実を逸脱した展開になった。
『SOUL 覇 第2章』では劉備が倭国から大軍を呼び寄せ、中華を女王卑弥呼に服属させようとするところから始まる。実際のところは当時の倭国は中国から鏡をもらってキャッキャと喜んでいたレベルであり、中華に大軍を派兵するほどの国力はない。さらに呉が呉がローマの剣闘士奴隷を率いており、国際色豊かである。漢民族中心の中華思想の歴史観とは異なるフィクションを提示する。
他にも趙雲が女性で、呉がキリスト教を信奉するなどユニークな設定が目白押しである。関羽と張飛が劉備から離反するなど三国志の内容からも大きく逸脱している。諸葛亮も劉備とは独自の立場で行動している。三国志で活躍する人物が、あっけなく退場するという驚きの展開も用意されている。(林田力)
雁屋哲原作、花咲アキラ画『美味しんぼ』第108巻は「被災地編・めげない人々」である。2011年3月11日の東日本大震災と福島第一原発事故は東北地方に甚大な被害をもたらした。それから3か月後、山岡ら東西新聞社の記者達は、かつて取材した被災地の方々に会うために東北に旅立つ。青森県や岩手県、宮城県をめぐり、苦境に屈することなく、復興に挑む「めげない人々」の力強い勇気に逆に励まされた。
生産者との結び付きを大切にする『美味しんぼ』らしい企画であるが、「めげない人々」というサブタイトルは頑張ることを強制する特殊日本的な精神論と重なる。あれだけの大災害の後である。めげることが自然であり、めげたとしても誰も非難できない。「頑張れ」ではなく、「ゆっくり休んでください」が優しさである。
尖った社会批判が魅力の『美味しんぼ』だけに、社会の空気と合致したガンバリズム礼賛は物足りない。被災地の現状は個人の頑張りで解決する問題ではない。除染や漁業特区など復興を名目にした利権も動いており、各自が頑張ろうでは済まない問題である。
『美味しんぼ』の批判精神の浅さは過去のパソコン談義でも見られた。そこではWindowsを扱き下ろし、Macintoshを持ち上げた。Windowsが圧倒的なシェアを占める状況では判官贔屓の感情も生まれるだろう。しかし、オープンの世界でデファクトスタンダードを打ち立てたマイクロソフトよりも、ハードからソフトまで自社で囲い込むアップルの方が消費者に開かれていると考えることは幻想である。
現実にアップルは下請け工場での労働者搾取が告発され、企業体質が批判されている(CHARLES DUHIGG and DAVID BARBOZA, Apple's iPad and the Human Costs for Workers in China, New York Times, January 25, 2012.)。『美味しんぼ』が持ち上げたくなるような企業とは実像が乖離している。『美味しんぼ』には骨太の社会批判を期待したい。
また、福島第一原発事故の放射能被害への言及が少ない。雁屋氏は福島原発事故直後にブログで「原発事故は人災である。過去の自民党政権の遺産である。」と書いただけに物足りなさが残る。また、農薬不使用など健康的な食材をアピールしてきた『美味しんぼ』だけに福島原発周辺の食材の安全性について聞きたいところである。
その点は雁屋氏のブログでも「肝心の福島の被害状況と、食と放射能の問題にきちんと対峙しないことには、今まで食の安全、食環境問題を取り上げてきた『美味しんぼ』の意味がない。」と述べており、問題意識は持っている(雁屋哲の今日もまた「緊急のお願い」2011年12月8日)。
福島産食材は難しい問題である。日本政府は放射能の害を過小評価している。一方で放射能汚染の危険性をtwitterなどで煽り立て、「安全」と称する商品をネットで売りつける悪徳業者も跋扈している。その点で原発事故を「自民党政権の遺産」と非難しつつも、福島原発から距離的にも離れ、山脈で隔てられた会津地方の米を安全と評価する雁屋氏のバランス感覚は優れている。今後の内容に期待したい。(林田力)
北条司『エンジェル・ハート2ndシーズン』第3巻(徳間書店、ゼノンコミックス)が2012年3月19日に発売された。ハードボイルドなアクションは乏しく、人情色が濃厚である。前半は香に化けたカメレオンの話の続きである。コメディ回と思いきや人情味ある話にまとめた。
新宿の住民の香の命日のしのび方がユニークである。日本には嫌な過去を忘れて前を見て生きることを是とする非歴史的な傾向が根強い(林田力「日本社会の非歴史性が問題だ」PJニュース2010年 6月26日)。その種の前向き圧力が苦しむ人々をますます苦しめ、日本を生きづらい社会にする大きな要因である。これに対して、新宿の住民達は香を決して忘れることなく、楽しく生きている。過去を振り返らないことが前向きで未来志向という特殊日本的精神論へのアンチテーゼになっている。
この巻で明らかにされた香の好きな場所にも趣がある。高層ビル街の新宿らしからぬ木々で覆われた小路である。これも二子玉川ライズのような高層ビル主体のバブル経済的再開発へのアンチテーゼになる。
東急不動産だまし売り裁判で不動産会社と戦い、マンション建設反対運動に共感する立場には嬉しい内容である。『エンジェル・ハート2ndシーズン』は第2巻でマンション建設のための立ち退きを迫る地上げ屋との戦いも描いている(林田力「『名探偵コナン』『エンジェル・ハート』 最新刊で地上げを話題に」リアルライブ2011年9月29日)。同じく地上げ屋に苦しめられてきた東急不動産だまし売り被害者と波長が合う。
前半では香と接点のあった人々の暖かさを描いたが、後半は街の闇を描く。ほのぼのしたコメディ調から人情話になり、急転直下して悲劇になる。見事な筋運びである。
三浦浩児脚本、山口陽史作画『エグザムライ戦国G』は『月刊少年チャンピオン』月刊少年チャンピオン2011年11月号(秋田書店)から連載中の漫画である。ダンス&ボーカルユニットのEXILEのHIROがプロデュースし、日本の戦国時代に類似する架空の世界を舞台にEXILEのメンバーを模した侍や忍者達が活躍する作品である。キャラクター原案は高橋ヒロシが担当した。
『エグザムライ戦国G』はタイトルを一新しているが、『エグザムライ戦国』の続編である。『エグザムライ戦国』ではHIRO、ATSUSHI、MAKIDAI、TAKAHIRO、MATSU、USA、AKIRAの7名が主要キャラでで、その後のEXILEのメンバー増員は反映されていない。最終巻である第7巻(2011年11月8日発売)正体不明の怪人カグラとの戦いに決着がつけられる。主人公的存在のHIROが単純にプロモーションになるようなカッコいい存在で終わっていない。物語の世界観を重視した展開になった。一方でストーリー自体は「俺たちの闘いは、これからだ」的な終わり方で、新章突入のための強引さがあった。
これに対して『エグザムライ戦国G』ではエグザムライがEXILEの構成と同じ14人となり、EXILEのメンバー増加に対応する。『エグザムライ戦国G』へのリニューアルには大人の事情も見受けられる。第1巻は既存キャラのその後と新キャラの顔見せ的な内容である。新たなエグザムライには短銃や大砲で武装した異国の戦士もおり、より何でもありの要素が強まった。
『エグザムライ戦国』にはEXILEのプロモーション漫画やEXILE人気への便乗漫画と割り切れない面がある。それは作品全体を貫くヤンキーテイストである。もともとキャラクター原案の高橋ヒロシは『クローズ』などのヤンキー漫画を得意とする。掲載誌の『月刊少年チャンピオン』もヤンキー漫画が中心である。
これらにふさわしく、『エグザムライ戦国』で描かれるEXILEのメンバー達は実物以上にワイルドな風貌で、性格もヤンキー的なノリである。現実社会ではヤンキー文化は時代遅れのダサいものとなっている(林田力「勢いに乗る韓流(下)」PJニュース2010年11月12日)。しかし、過去を舞台に描けばヤンキー的なキャラクターも時代遅れにならない。
『カメレオン』でヤンキーの成り上がりを描いた加瀬あつしも『週刊少年マガジン』で連載中の『ばくだん!幕末男子』では幕末を舞台に新撰組をヤンキー集団的なノリで描く。国際的にも注目される武士や侍の精神性を社会のはみ出し者であるヤンキーにたとえる『エグザムライ戦国』も『ばくだん』も歴史ファンにとっては噴飯物であるが、フィクションとしてはユニークな視点を提供する。
その反面、ヤンキーテイストで描くことがEXILEにとってメリットがあるかは別問題である。EXILEのファンの大半は女性であるが、『エグザムライ戦国』はファンの感覚とはマッチしていない。果たしてEXILEのイメージアップになるかは疑問である。それが逆に良くも悪くも『エグザムライ戦国』を独立して評価できる作品にしていることも事実である。(林田力)
大暮維人『エア・ギア』は週刊少年マガジンで連載中の漫画である。空を飛ぶことも可能な特殊なシューズ「エア・トレック」を装着したライダー達の戦いを描く作品である。
『エア・ギア』には空を飛ぶ靴で疾走するという、空を飛ぶことへの憧れと、暴走族的な幼稚な衝動を具現化した要素がある。実際、エア・トレックを装着したライダー達のチームは暴走族ならぬ暴風族と呼ばれる。ヤンキー文化は日本の大衆文化の一要素になっているが、クール・ジャパンを損なう恥ずかしい要素である(林田力「勢いに乗る韓流(下)」PJニュース2010年11月12日)。しかし、『エア・ギア』の第35巻では、その種の恥ずかしい粗暴さに対抗する価値を提示した。
第35巻の前半はキリクを中心とした眠りの森(スリーピング・フォレスト)と武内空との戦いである。キリクは空の玉璽を武内空に向け発動する。悪役は武内空である。ひたすら高く飛ぶことを目指す武内空に対して、眠りの森は森という地に足ついた存在として対抗する。
後半は主人公南樹(イッキ)と武内空の戦いである。この戦いは軌道エレベーターの最上階から地上へ速く降りる競争である。空高く上ることではなく、地上に到達することに価値があることを暗示する。
昔から「馬鹿と煙は高いところに昇る」と言われるが、残念なことに世の中にはバカが多く、エンタメ作品は馬鹿を相手に成り立っている面がある。そのために空を飛ぶことを魅力的に描く作品も少なくない。しかし、馬鹿の価値観に迎合するだけでは芸がない。空を飛ぶことに価値があるように見せながら、実は上空よりも大地に価値を見出す作品もある。
たとえば宮崎駿のアニメ映画『天空の城ラピュタ』がある。ヒーローのパズーは天空に浮かぶ島ラピュタに憧れる少年である。彼は空への憧れというナイーブな人々を代表する。しかし、ヒロインのシータは「どんなに科学が発達しても、可哀想なロボット達を使っても人は土から離れたら生きていけない」と叫び、パズーもシータの決断に同調する。
林田力は東急不動産だまし売り裁判で不動産業者と戦い、景観や住環境を破壊する超高層マンション建設反対運動に共感する(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。そのような立場にとって『エア・ギア』や『天空の城ラピュタ』に見られる作品に隠された上空よりも大地に価値を見出す思想には大いに勇気付けられる。
新田たつお『静かなるドン』は下着デザイナーと広域暴力団・新鮮組の三代目総長という二つの顔を持つ近藤静也を主人公とする作品である。主人公の会社生活や恋愛などヤクザ漫画以外の要素も楽しめる。
『静かなるドン』は1989年に週刊漫画サンデーで連載開始され、単行本の累計発行部数が4000万部を突破する長寿作品である。長寿作品としては『こちら葛飾区亀有公園前派出所』や『ゴルゴ13』が先輩になるが、これらはオムニバス形式である。『静かなるドン』はストーリー物であることが特徴である。
『静かなるドン』で第二の主役と呼べるほどフィーチャーされていた白藤龍馬であったが、第102巻では凋落が著しい。シチリア・マフィアに追われるように本拠地を捨て、名古屋や静岡の古参組織にも離反され、傘下の企業舎弟にも協力を渋られる。ジリ貧状態である。
龍馬の凋落にはキャラクターの一貫性のなさがある。本来ならば世界を操る世界皇帝への憎しみは読者にとって共感できるものである。社会への問題意識に乏しく、戦おうとしない静也以上に龍馬は理解しやすいキャラクターである。
父に坂本健・鬼州組四代目、祖父に獅子王一徹・獅子王総裁を持つ点で龍馬も静也と同じく親の存在によって子どもの人生が決まる格差社会の申し子ではある。しかし、龍馬は大親分の息子として育てられたわけではなく、前半では社会の不合理を強く味わっている。静也自身が認めるようにボンボン育ちの静也とは異なる。この点でも読者は感情移入しやすい。
しかし、龍馬には一貫性がない。世界皇帝をテロという弱者の戦法で暗殺した。ところが、世界皇帝が差し向けたマフィアにはロシアン・ルーレットというリスキーな勝負に身を晒し、自らを神と宣言する。その後は志ある政治家を後援することで日本の政治改革を目指す。
過去の日本社会では過去を水に流してしまう非歴史性が横行しており、一貫性のなさは問題とされにくかった(林田力「日本社会の非歴史性が問題だ」PJニュース2010年6月26日)。反対に「終わりよければすべてよし」というナイーブな発想もあるほどである。
しかし、少しは成熟した現代では一貫性のなさは、それだけで非難に値する(林田力「政治家のブレを許さない日本政治の一歩成熟」PJニュース2010年6月4日)。ブレのある龍馬にはキャラクターとして魅力がない。実際、かつての龍馬には人を惹き付ける魅力があった。しかし、今の龍馬は孤独である。
これに対して、静也にはブレがない。この巻でも鬼州組七代目を弟分にすること以上に下着デザイナーを続けることに心を動かされている。ヤクザとして名を上げる実力を持ちながら、それをしない静也はヤクザ漫画において理解しにくいキャラクターであるが、キャラクターに一貫性があることは確かである。さすが主人公である。この巻も龍馬の物語のようになってはいるが、やはり『静かなるドン』は静也が主人公の作品であると再認識させられる。
諌山創『進撃の巨人』は『別冊少年マガジン』(講談社)で連載中の漫画である。人類が存亡を賭けて巨人と戦うサバイバル作品である。口コミなどで掲載誌購読層を越えて話題になり、コミックス2巻で累計100万部を突破した。宝島社のムック『このマンガがすごい!2011』(2010年12月10日発売)ではオトコ編首位に輝いた。
物語の舞台は近世ヨーロッパ風の世界である。但し、多くの架空歴史作品と同じく、習俗や技術が部分的に現代的になっている。世界は突如、出現した巨人に支配されていた。巨人は圧倒的に強く、人間を捕らえて食べてしまう。追い詰められ、僅かに残された人類は高さ50メートル以上の頑丈な城壁を作り、その中で暮らしてきた。しかし、その城壁をも破壊する大型巨人の出現により、人類は存亡の危機に追い込まれる。
当初は人間の論理の通じない巨人との弱肉強食のサバイバルという趣の『進撃の巨人』であったが、物語が進むにつれて巨人が人為的な存在であることが浮かび上がる。その謎を解く手掛かりが第6巻のラストで得られたかに見えたが、第7巻でひっくり返される。分かったことは敵勢力が想像以上に巨人を使いこなしていることだけであった。
巨人の謎解きは進まず、第7巻でも第6巻に続いて主人公エレンの決断をめぐる葛藤がメインテーマになる。第6巻では仲間を信頼することで好結果を得たが、第7巻では反対に悲惨な結果をもたらした。唯一絶対の正解を出さないところに『進撃の巨人』の面白さがある。
尾田栄一郎『ONE PIECE』に代表される現代の少年漫画は主人公が信念を貫くことを何よりも大切にする傾向がある。ニュータイプとしての素養を持ちながら地球連邦という腐敗した体制の歯車になる『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイのようなキャラクターは現代では流行らない。このこと自体は「長いものに巻かれろ」の日本社会において非常に好ましい傾向である。
一方で価値観の多様性に立脚しない信念は「俺の考えが唯一絶対」という幼稚でナイーブな独善に陥ってしまう(林田力「大卒から感じた 高卒のギャップ」PJニュース2010年11月23日)。唯一の正解を簡単には出さず、キャラクターに葛藤を続けさせる進撃の巨人はメジャー作品に対抗する価値を提示する。
この巻ではミカサとリヴァイ兵士長の共闘も見物である。天才的な戦闘能力を有するミカサと「人類最強の戦士」と呼ばれるリヴァイの何れが強いか、気になるところである。今回はリヴァイが冷静さを保ち、経験の差を見せつけた。
さいとう・たかを『ゴルゴ13』は『ビッグコミック』で連載中の漫画である。一流のスナイパー・ゴルゴ13(デューク東郷)による超人的な暗殺ミッションを描く劇画である。1968年から連載を続けている長寿劇画で、ゴルゴ13がスナイパーの代名詞になっているほど有名な作品である。
第164巻(リイド社、2012年4月5日)は表題作「北京の蝶」と「冤罪許すまじ」「ONE SHOT」を収録する。「北京の蝶」は「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」というバタフライ効果から付けられたタイトルである。
中国と米国のパワーゲームを背景としたエピソードである。中国に払い下げられた旧ソ連の空母は海上遊園地として利用されていた。だが中国軍は密かに内部を最新鋭艦に改造していた。これを知った米国はゴルゴに依頼する。
「冤罪許すまじ」は死刑囚の無実を信じ、冤罪を主張する弁護士が主人公である。米国・死刑囚はペンシルバニア州の刑務所で強盗殺人の罪で勾留されていた。この弁護士に何故かゴルゴは多額の資金援助をしていた。アメリカの地方コミュニティの閉鎖性・排他性を背景にしたエピソードである。
「ONE SHOT」は弟をゴルゴに殺されたロシアンマフィア幹部の物語である。凄腕のヒットマンと特異な体質の青年の二人を雇いゴルゴ殺害を計画した。ゴルゴは罠とも知らずおびき出されてしまう。
やはり表題作の「北京の蝶」が印象深い。事件には直接絡まず、傍観者にしか過ぎないが、日本の保守政治家を登場させることで物語に厚みを持たせている。この保守政治家は中国を敵視する演説で国民の人気取りをしているが、本音では中国と対決できないことを知っている。国民のルサンチマンのはけ口として中国の脅威を喧伝するに過ぎない。同じように中国の反日デモも体制批判から人民の目を反らすための体制側の策謀であると喝破している。中国の反日運動に本気で立腹し、右傾化する国民が愚かである。
中国には強気な発言で人気取りをする保守政治家であったが、米国には何も言えない対米従属ぶりが描かれる。表向きは国家や民族や主権というものを重視する保守派が対米従属には抵抗しない「雇われ右翼」に過ぎないという日本政治のリアリティを浮き彫りにする。(林田力)
荒木飛呂彦『ジョジョリオン』は人気シリーズ『ジョジョの奇妙な冒険』のPart8に位置付けられる漫画である。『ジョジョの奇妙な冒険』は「ジョジョ」の愛称を持つ主人公が強大な敵と戦うアドベンチャーである。
Part1からPart6までは19世紀末英国の貴族ジョナサン・ジョースターと、その子孫が主人公とするジョースター家の物語であった。これに対してPart7の『STEEL BALL RUN』はパラレルワールド的作品で、キャラクターもストーリーも前作とは連動していない。
『ジョジョリオン』の舞台はPart4「ダイヤモンドは砕けない」と同じ杜王町である。吉良、広瀬、東方という懐かしのキーワードが登場する。しかし、登場人物は同じ名前や似たような名前でもPart4とは別人というパラレルワールド的設定である。第2巻で東方家の先祖がアメリカ大陸横断レースに参加したと語られており、『STEEL BALL RUN』の世界と接続していることが分かる。
Part4の読者にとって『ジョジョリオン』の世界は一見すると抵抗がある。主人公はPart4の主人公と同じ名前を名乗ることになるが、記憶を喪失しており、善人か悪人か不明である。しかもPart4の悪役であった吉良吉影との関係性がほのめかされている。
さらにPart4では主人公サイドであった東方家の面々が胡散臭い。『ジョジョの奇妙な冒険』ではディオのように敵キャラクターにも底知れない存在感や悪の魅力を放っていた。しかし、ジョジョリオンではチンピラめいた胡散臭さにとどまっており、迫力に欠ける。
それでも第2巻の後半から迫力が出てきた。ここではスタンド対決が展開されるが、敵が公正さを重んじて自分の弱点を相手に教えている。これによって敵キャラクターに底知れない迫力を与えることができた。
現実の日本ではクライアントほしさのあまり法律事務所が「弁護士は公正中立ではありません」などという広告を出すほどの浅ましい状況である(林田力「弁護士の粗末な交渉で泥沼相続紛争(中)」PJニュース2010年10月8日)。その中で『ジョジョリオン』は敵キャラクターにも公平を重んじさせ、敵ながら魅力を与えている。
間瀬元朗『イキガミ』は国民に生命の価値を再認識させるために「国家繁栄維持法」(国繁)という法制度のある日本に似た「この国」が舞台である。全国民の1000分の1に逝紙(イキガミ)という死亡予告証が届けられ、逝紙が届けられてから24時間後に確実に死ぬ(国繁死)という恐ろしい制度である。松田翔太主演で2008年に映画化された。
『イキガミ』の主人公は逝紙を配達する藤本賢吾である。藤本が逝紙を配達することで、受け取った相手は自分が24時間後に死亡するという辛い現実を突然知ることになる。その現実に直面した本人や家族の葛藤が物語の中心である。逝紙配達後24時間で死亡するという設定は絶対的で、制度を曲げて人情味のある結末にはならない。暗い絶望的な結末が多いが、その圧倒的な絶望感に引き込まれる読者も多い。
24時間後に死亡するという絶望的な状況に置かれた若者の様々な行動をオムニバス的に描いてきた『イキガミ』であったが、ようやく制度に問題意識が向かってきた。イキガミの存在理由が明かされる中で浮かび上がったものは権力の卑劣さである。
人間は少しでも自分にメリットのある選択をしようとする。そこに権力は付け込む。最悪の選択肢と最悪より少しましな選択肢を与えることで、自発的に後者を選択するように仕向ける。与えられた選択肢の中で少しでも良い選択をすることに汲々とするのではなく、選択肢を提示する非合理な制度そのものを疑問視しなければならない。
これは林田力にも思い当たる。林田力は東急リバブル東急不動産から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされ、消費者契約法に基づき売買契約を取り消し、売買代金全額を取り戻した。裁判中には契約の取り消しは難しいから、損害の填補で我慢しろというような圧力を受けたこともある。損害の填補は泣き寝入りよりは、ましである。しかし、東急不動産の問題物件に住み続けなければならない。よりましな選択という枠組みに囚われず、契約の取り消しという根本的な解決を貫いた(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。
『イキガミ』では国繁という欺瞞の体制の行く末は描かない。主人公が語るように結末は逃避である。しかし、国民の大部分が露骨な徴兵には怒りを示しても、与えられた選択肢の欺瞞に気付かず、よりましな選択をしてしまう状況では、逃げるという選択を非難できない。
現代の日本には国繁のような露骨な不合理は存在しない。しかし、体制側が不合理な選択を迫る状況は珍しくない。福島原発事故に対する東京電力の損害賠償案は一例である。雀の涙ほどの賠償金で我慢するか泣き寝入りするかを迫るものだからである。日本の庶民の側にも他の同種被害者よりも少しでも美味しい思いをしようと個別取引に乗っかり、自分よりも悲惨な境遇の人を下方比較することで満足する醜い傾向があることを否めない(林田力「区画整理・再開発反対運動の脆さと方向性(上)」PJニュース2010年8月30日)。
主人公はラストで希望を持って目的地を述べたが、そこまでの希望が今の日本に存在するか、読者に難しい問いを突き付ける。(林田力)
かわぐち かいじ『兵馬の旗〜Revolutionary Wars〜』は戊辰戦争を描く歴史漫画である。『沈黙の艦隊』や『ジパング』、『太陽の黙示録』と壮大なスケールで日本という国家像を問うてきた、かわぐちかいじの新作は一転して幕末物になった。
主人公は幕府旗本の宇津木兵馬で、幕府側の立場から戊辰戦争を描く。兵馬はロシア留学経験のある開明派で、帰国後は幕府の西洋式精鋭部隊・伝習隊の将校となる。かわぐちかいじは、これまで現代社会を主な舞台として、自分で考え行動する強烈な近代的自我を持った人間を描いてきた。それは『兵馬の旗』でも健在である。
現代人的な感性がある架空の人物の姿をイキイキと描くことで、描かれ尽くされた感のある幕末物に新たな視点を提示する。しかし、江戸無血開城に向けての交渉と赤報隊・偽官軍事件が中心の第3巻は勝海舟や西郷隆盛(西郷吉之助)という有名人が前面に出て、独創性が乏しくなった。主人公の存在意義は人命救助であるが、あまりに優等生的である。
明治新政府の汚点である偽官軍事件に際して、薩摩藩士が相楽総三を救おうとする展開は面白い。欧米列強に屈服した神戸事件と重ねることで明治新政府の無責任さを強調する視点も優れている。しかし、物語自体は史実通りの救いのない展開である。黙して語らずの相良総三を都合よく解釈して貴い犠牲と美化する体制側の卑劣な論理が展開される。
歴史をなぞる作品になるのか、現代人的感性で幕末を再構築するのか、物語は分岐点にある。(林田力)
夏原武・企画・原案、黒丸『新クロサギ』は詐欺をテーマとした「戦慄の詐欺サスペンス」漫画である。詐欺師には人(カモ)を騙して金銭を巻き上げる白鷺(シロサギ)、異性(カモ)を餌として心と体を弄ぶ赤鷺(アカサギ)、人を喰わずシロサギやアカサギのみを喰らう黒鷺(クロサギ)がいる。
主人公の青年・黒崎は詐欺被害によって一家心中を起こした家族の唯一の生き残りである。詐欺師を憎む黒崎はクロサギとなって詐欺師を詐欺にはめていく。東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた林田力にとって感情移入しやすい内容である(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社)。
『新クロサギ 7 ECO詐欺』はエコロジーを名目にした詐欺を取り上げる。現代ではエコロジーは錦の御旗のような扱われ方になっている。一般論として環境意識の高まりは悪いことではないが、それを悪用した悪質商法や詐欺も横行している。インチキ節電装置や偽エコファンド、空気清浄機や浄水器などエコロジーを悪用した詐欺は増加している。
『新クロサギ 14』では震災復興詐欺、秘書詐欺、劇場型詐欺を収録する。中でも東日本大震災に便乗した卑劣な震災復興詐欺はタイムリーである。何であれ詐欺は許せないが、震災復興詐欺には社会の敵とでも言うべき悪質さがある。
現実には福島第一原発事故に便乗した悪質商法が横行している。脱原発詐欺や放射能詐欺というべき詐欺である。放射能の危険を煽り、ネット通販などで安物の放射線測定器(ガイガーカウンター)を販売する悪徳業者がいる。国民生活センターは2011年9月8日に「比較的安価な放射線測定器の性能」の調査結果を発表した。環境中の微量の放射線や食品・飲料水等が暫定規制値以下であるかの判定はできないと注意喚起する。また、充電器にPSEマークの表示がなく、プラグの栓刃に穴がないなど電気用品安全法に抵触する恐れのある製品もある。
また、ゼロゼロ物件詐欺や追い出し屋などでフリーターなどの貧困者を食い物にしてきた悪徳不動産業者が東日本大震災をビジネスチャンスとして、被災者・避難者向け賃貸住宅に力を入れている。根拠のない放射能汚染をツイッターなどで拡散し、福島県民らの不安を煽り立てている。ゼロゼロ物件業者が自主避難者に劣悪なゼロゼロ物件に住まわせる問題も起きている。悪質な業者を排除することが正しく放射能を恐れる道である。環境と詐欺で「ECO詐欺」という鋭い着眼点を持つ『クロサギ』。脱原発詐欺の登場も遠くないかもしれない。(林田力)
『ドラえもん』は未来から来た猫型ロボットが活躍する日本を代表する漫画作品の一つである。第1巻では多くの長寿作品と同じく、絵柄が後に知られるものとは微妙に異なる。ドラえもんの頭と胴体のバランスに違和感がある。作品は連載しながら成長していくものであることを再確認する。
それでもストーリーの完成度は高い。しずちゃんやスネ夫、ジャイアンのキャラクターは固まっている。のび太のパパとママの馴れ初めも第1巻「プロポーズ大作戦」で登場する。
『ドラえもん』にはドラえもんが、のび太を甘やかしているとの批判がある。「のび太君があまりに安直にドラえもんに頼っていないか。彼の優しさは認めるが、時にはドラポッケを使わず、課題に向かって努力する姿があってもいいのでは」(弓野真孝「ドラえもん頼りすぎでは」読売新聞2001.2.10)。
これに対しては以下のように反論される。「このアニメは『こんなことがあったらいいな』という発想の楽しさが原点。実生活では一人で頑張る子供にとり、甘えられるドラえもんは夢であり、心の救いでもある」(山田礼子「ドラえもんは心の救い」読売新聞2001.2.19)。PTA推奨作品にするために漫画家は漫画を描いている訳ではない。
一方で第1巻収録の最終話「走れ! ウマタケ」は、のび太が竹馬を乗りこなす話である。のび太は何度も転んで怪我をしながらも、ドラえもんに叱咤激励され、遂に竹馬に乗れるようになる。第1巻の時点で作品の形ができている。(林田力)
信長協奏曲
石井あゆみ『信長協奏曲』は現代の高校生サブローが戦国時代にタイムスリップし、織田信長になりかわる漫画である。現代人が日本の過去にタイムスリップするタイムスリップ物は村上もとか『JIN-仁-』のように一定の成功を収めているが、『信長協奏曲』は異色である。
第一に主人公が飄々としていて、元の時代に戻りたいという意識が乏しい。タイムスリップの意味や現代に戻るためにどうすればいいか悩むこともない。現代を思い出すシーンもない。
第二にタイムスリップ物におけるタイムスリッパーの最大の強みは未来を知っていることであるが、本書の主人公は勉強が苦手という設定で歴史知識がない。本能寺の変で信長を討つことになる明智光秀も知らないほどである。
主人公の強みは運動能力や視力である。一般に現代人の身体能力は文明生活によって退化している。そのため、肉体的には過去の人々に劣るが、未来を知っているという知識がタイムスリッパーの強みとなる。この点で『信長協奏曲』の設定は異質である。但し、栄養状態の良い現代人の方が身体能力は高いとの説明も成り立つ。その点では本書はリアリティがある。
第三に結果的に史実に沿っていることである。タイムスリップ物は歴史のIFを楽しむものである。しかし、キャラクターの言動や動機は史実として伝えられているものとは異なるが、物語は史実に忠実に展開する。実際の出来事が史実と異なることもあるが、主人公の言動によって伝えられている史実通りになる。信長は病弱であったが、戦国時代の常識を知らない主人公と入れ替わることで、「うつけ者」と呼ばれるようになる。未来人の過去の言動も折り込み済みで歴史となる「ドラえもん」的な世界である。
一方で『信長協奏曲』の信長は飄々としており、怒りを見せない。これは伝えられている信長像との大きな相違点である。比叡山延暦寺の焼き討ちなどの描写が注目される。(林田力)
石井あゆみ『信長協奏曲』第2巻は桶狭間の合戦前夜までを描く。木下藤吉郎が腹黒い人間として描かれている点が特徴である。椎名高志『MISTERジパング』の日野秀吉を彷彿させるが、それを上回る。藤吉郎の出自についても大胆な解釈がなされている。豊臣秀吉の晩年が悪辣な権力亡者であることは多くの人の認めるところであるが、信長の家臣時代は善人に描かれることが多かった。これは秀吉の一生を描く場合に一貫性に欠けるものになる。本書のような秀吉は実は実態に近いかもしれない。(林田力)
石井あゆみ『信長協奏曲』は平成生まれの高校生サブローがタイムスリップして織田信長になる青春戦国記である。織田信長の歴史的イメージからするとサブローは線が細く、軽薄であり、好き嫌いが分かれるところである。しかし、佐藤賢一『女信長』では信長を女性と描いたように信長という革新児は普通の武将と懸け離れたところがある。
第3巻は桶狭間の合戦で幕を開け、美濃攻略が描かれる。「今、彼らの協奏曲が始まろうとしている」とのナレーションによってタイトル『信長協奏曲』の理由も明らかになる。タイトルだけでは『のだめカンタービレ』のようなジャンルの作品と勘違いした人もいただろう。
この巻では竹中半兵衛や明智光秀という重要人物が登場する。竹中半兵衛は織田信長よりも秀吉を評価していたと伝えられることが多い。しかし、『信長協奏曲』は信長と直接出会い、信長を認めたような様子である。竹中半兵衛がどのような動機で織田家に仕えるか見どころである。さらに明智光秀も非常にユニークな設定であり、どのように本能寺の変が描かれるか著者の歴史解釈に興味が尽きない。(林田力)
石井あゆみ『信長協奏曲』第4巻では、美濃を平定した信長は明智光秀を家臣とし、足利義昭を奉じて上洛する。光秀は足利義昭の下から信長の家臣に転身したとする見方が一般的であるが、信長協奏曲では信長ありきになっている。信長と義昭の間には史実同様の溝が生まれるが、間に入る細川藤孝が食わせ者である。ここでも魅力的な歴史上の人物が描かれる。(林田力)
石井あゆみ『信長協奏曲』第5巻では天下布武に向かって進むサブロー信長の敗北が描かれる。越前・朝倉攻め連戦連勝を続けていたが、絶体絶命の危機に陥る。そこでのサブローの決断は史実通りではあるが、戦国武将的な常識のない平成の高校生的な内容であった。
この巻では秀吉の弟(後の羽柴秀長、豊臣秀長)が登場する。晩年は暴虐な独裁者となった秀吉への評価は分かれるが、秀長には温厚篤実で善良というイメージが圧倒的である。豊臣政権の暴走も秀長の死を端緒とする見方が根強い。秀長が生きていれば千利休の切腹も朝鮮出兵も豊臣秀次の粛正もなかったとの見解もある。
これに対して、『信長協奏曲』では秀長も曲者である。タイムスリップという特殊性なしに歴史物としても純粋に興味深い。
木下藤吉郎改め羽柴秀吉に対しては竹中半兵衛と明智光秀が警戒心を抱く。信長協奏曲で半兵衛は秀吉よりも信長に惹かれている。その半兵衛が秀吉の配下になる理由が見えてきた。
一般に伝えられている歴史では秀吉は柴田勝家と緊張関係にあったが、光秀とは外様同志ということもあって仲は悪くなかったとされることが多い。一方で本能寺の変前夜には秀吉を比較対象とした信長から、プレッシャーを受けていたと描かれることも多い。たとえば大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』がある。織田家臣団の人間関係にも大いに注目である。(林田力)
石井あゆみが『ゲッサン』で連載中の漫画『信長協奏曲』が、1月23日発表の第57回小学館漫画賞少年部門を受賞した。また、北原星望原作、原哲夫画で『月刊コミックゼノン』で連載中の漫画『いくさの子〜織田三郎信長伝』第2巻が、1月20日に発売された。共に織田信長を描いた歴史漫画であるが、ヒステリックで冷酷という伝統的な信長像から解放されている。
『信長協奏曲』は現代の高校生サブローが戦国時代にタイムスリップし、織田信長になりかわる漫画である。サブロー(信長)は飄々としていて、怒りを見せることはない。『いくさの子』は吉法師と呼ばれた少年時代から信長を描く歴史漫画である。吉法師は原哲夫が『蒼天の拳』で描いた霞拳志郎のような清々しさを有した人物になっている。
信長は日本史上最大の革命児と称されているが、その実像は意外なほど堅実である。不利な状況から圧倒的な武力や余人では思い付かない奇策で形勢を逆転させるよりも、勝てる戦いに確実に勝利する堅実さを特徴とする。困難な状況に立ち向かうよりも、あっさりと逃げ出すことも多い。信長の後継者の信忠が信長よりも劣っていた点として、本能寺の変に際して脱出しなかったことが挙げられるほどである。
この信長の堅実性は意図的に無視される傾向がある。困難な状況においても、ひたすら頑張ることを美徳とする精神主義が支配する日本社会のヒーロー像に似つかわしくないためである。だからこそ信長は日本史上最大の革命児になるが、ドラマとしては盛り上げにくい。革命児は熱いパッションを有していなければならないという呪縛に囚われると、情熱家とは描けないため、ヒステリックという感情を強調することになる。
『信長協奏曲』のサブローは、お人好しが過ぎるほどでヒステリックさの対極に位置する。この性格から信長の周りには前田利家や佐々成政ら有能な家臣が集まった。羽柴秀吉・秀長兄弟が腹黒い野心家として描かれる意外性もあるが、純粋な忠義ではないものの、彼らも惹き付けている。
『いくさの子』の吉法師は天賦の才を持った戦争の申し子として描かれる。少年を集めて武器を工夫し、一対一では敵わない海賊や山賊を打ち破る。しかし、最大の才能は人を惹き付ける魅力と作中で分析されている。信長の戦術上の最大の業績は長篠の戦いにおける三段撃ちであるが、『いくさの子』では信長の独創とはしていない。既にヨーロッパで採用されている戦術という説を採る。優れた戦術を採用する柔軟性こそが信長の強みである。
信長は重用していた家臣に謀反を起こされて殺害された結末から、家臣の接し方に問題のあるパワハラ主君の烙印を押されている。これも一面では正しいが、信長ほど人材登用に熱心な大名もおらず、織田家に様々な才能が集まったことも事実である。
『信長協奏曲』でも『いくさの子』でも有能な家臣が集うことが納得できる人間的魅力のある信長になっている。新鮮な信長像を提示する両作品が比叡山延暦寺焼き討ちや本能寺の変をどのように描くのか興味は尽きない。(林田力)
白竜
天王寺大原作、渡辺みちお画『白竜 21』(日本文芸社、2008年)はヤクザ漫画の完結編である。ヤクザ物のメインは組織同士の抗争であるが、『白竜』は大企業などを相手にしたヤクザのシノギをメインとした点に特異性がある。最後を飾るストーリーは国営鉄道の都内の一等地の払い下げを巡る入札戦である。
民営化の名の下に国民の共有財産が企業の食い物にされている実態が浮かび上がる。官僚も接待や天下りによって甘い汁を吸っている。民営化という響きは美しいが、英語ではprivatizationであり、私物化とでも訳した方が実態に即している。
この民営化の実態を明らかにしたものが郵政民営化に伴う「かんぽの宿」疑惑である。たとえば東急リバブルは旧日本郵政公社から評価額1000円で取得した沖縄東風平(こちんだ)レクセンターを学校法人・尚学学園(那覇市)に4900万円で転売した。東急リバブルは濡れ手で粟の暴利を得たことになる(林田力「日本郵政ガバナンス問題調査専門委員会報告書公表」PJニュース2010年5月24日)。
この「かんぽの宿」疑惑が明らかになる以前に民営化によって企業が甘い汁を吸う実態を明らかにした点に『白竜』の先進性がある。後継の『白竜LEGEND』では八百長相撲や原発事故など現実に起きる事件を予見することで話題になっている(林田力「『白竜LEGEND』第17巻、原発だけでなく大相撲の八百長も予見」リアルライブ2011年4月11日)。
天王寺大原作、渡辺みちお画『白竜LEGEND 21』(日本文芸社、2011年)は『週刊漫画ゴラク』に連載中のヤクザ漫画の単行本である。黒須組の若頭・白竜こと白川竜也を主人公とした作品である。話の中心は暴力団のシノギである。
この巻は前巻からの続きである「紛争ダイヤモンド」編が完結する。アフリカの紛争、人道犯罪という壮大なスケールで描いた「紛争ダイヤモンド」編であるが、暴力に翻弄されたホステスの覚悟が光る。
次の「湯けむり極道」は暴力団排除の風潮の中で温泉にも行けなくなったというヤクザの置かれた厳しい状況を背景としつつも、息抜き的な話題になった。強面の敵役であった剛野一成・王道会理事長も、すっかりコミカルな役が板についている。かつて部下の前で若頭・赤石誠を侮辱する暴君であった剛野組長も、今では新たな若頭・柳川の忠告に耳を傾けるという変化を遂げた。
最後の「野獣空港」編は空港建設という超巨額の利権を巡り、表と裏の住人が暗闘を繰り広げる話である。これは建設会社の不正がテーマで、現実の黒社会の事件にリンクしている。手抜き施工で金儲けを企む建設会社が暴力団を使って不正を揉み消させようとする。銀座戦争で登場した赤垣組長が剛野組長に代わって敵役になっている。
東急建設が2002年から暴力団系の建設会社に下請け工事を発注していたことが明らかになったばかりで、タイムリーな話題である。『白竜』では暴力団による東急電鉄株式買い占めを素材にしたエピソードもあった。現実の黒社会の事件を素材にする『白竜』のリアリティーに注目である。
天王寺大原作、渡辺みちお画『白竜LEGEND』は独立系暴力団・黒須組の若頭・白竜こと白川竜也を主人公とした作品である。話の中心は暴力団のシノギである。稲川会による東京急行電鉄株買占め事件など現実に起きた事件を下敷きにすることが多く、劇画的な意味でのリアリティがある。
第22巻は前巻から引き続き、「野獣空港」編である。単行本では複数のエピソードが収録されることが多いが、この巻では丸々「野獣空港」編である。しかも完結していない。敵はゼネコン、都知事、暴力団、主人公サイドも白竜と下請け建設会社というように複数のアクターが各々の思惑で動いている点が物語を複雑にしている。
「野獣空港」編では大手ゼネコンとヤクザの癒着をあからさまに描く。東急建設が暴力団系企業を下請けに使ったことも明らかになっており、タイムリーなテーマであるが、この巻では一歩踏み込む。建設会社が暴力団と癒着することについて、建設会社側は暴力団からの嫌がらせを避けるためと言い訳することが多い。
実際、東急建設も警視庁組織犯罪対策3課に「暴力団を懐柔しないと暴力団の嫌がらせを受ける」と釈明したという(「暴排通告企業脅す 道仁会系社長を逮捕」産経新聞2011年10月18日)。この種の言い訳によって暴力団と癒着した建設会社は自分達にも被害者的な側面があると自己正当化を図ることができる。
しかし、これは我が身かわいさの言い訳に過ぎない。「野獣空港」編のゼネコンはマスメディアに真実を話そうとする下請け建設会社を黙らせるために暴力団を利用した。暴力団と癒着する建設会社も市民社会の敵である。建設業界と暴力団の癒着の闇の深さを浮き彫りにする。
野獣空港編の面白さは下請け建設会社という弱い立場の存在が主人公サイドのアクターになっていることである。白竜という何事にも動じないチート的な存在が主人公である通常の展開とは異なる魅力がある。下請け建設会社には白竜のような知恵も力もない。普通ならばゼネコンに利用され、泣き寝入りさせられる存在である。
それが白竜に煽られてゼネコンと対決姿勢を示した結果、ゼネコン側の反撃で一層窮地に追い込まれてしまう。白竜に一杯食わされたとぼやきたくなるところである。実際、下請け建設会社社長は、それに近い発言をしている。
しかし、それで終わらないところが、下請け建設会社の偉いところである。泣き寝入りをしたところで、それにゼネコンが恩義を感じることはなく、潰されるだけだと分析する。故にゼネコンとの対決姿勢は正しかったと結論づける。
残念ながら、ここまでの考えに到達できる人は現代日本では少ない。大企業などはアメとムチで消費者や労働者、下請け企業など立場の弱い人々に迫る。アメが本当にアメならば一応は取引として成り立つが、往々にして悪徳企業はアメの期待を持たせるだけで何らのコミットもしない。用が済めば弱者の期待は裏切られる。
ところが日本では甘い期待から戦うことを放棄し、すりよってしまう愚か者も少なくない(林田力「ネット右翼は東京都青少年健全育成 条例で目を覚ませ」PJニュース2010年12月20日)。下請け建設会社社長のような腹をくくった人が多ければ閉塞感漂う日本社会も、もっとましなものになるだろう。
『FAIRY TAIL』
『FAIRY TAIL』は真島ヒロが『週刊少年マガジン』(講談社)で連載中の魔法ファンタジー漫画である。第30巻では天狼島が終結し、物語に大きな変化が生じる。巻末で作者自身が述べているように物語の時間を進ませて、その間に主人公達がパワーアップしている展開は定番である。最近は尾田栄一郎の『ONE PIECE』がある。
しかし、主人公達だけが成長しないまま、時間を経過させる展開は珍しい。近いところで空知英秋『銀魂』のイボ編のように激変した世界や人物に驚く浦島太郎的展開はある。これのバトル漫画への適用は新機軸になる。バトル漫画は常に新しい強敵を必要とし、新たな敵は従来の敵よりも強くなければならない。主人公達はパワーアップせず、周囲の新たな強豪を成長させることで強さのインフレによる世界観の破綻を回避できる。(林田力)
真島ヒロが『週刊少年マガジン』(講談社)で連載中の魔法ファンタジー漫画『FAIRY TAIL』第31巻が2月17日に発売された。主人公ナツ・ドラグニルら魔導士ギルド「妖精の尻尾(フェアリーテイル)」の主要メンバーが7年間の空白を埋めるためにパワーアップするが、修業よりも仲間との絆という格差社会の世相を反映した展開となった。
『FAIRY TAIL』はナツ達が消えてから7年が経過するという超展開となった。7年ぶりに奇跡の生還を果たすものの、その間に周囲のキャラクターは成長し、ナツ達は相対的に弱くなった。そのためにナツ達は修業を始める。しかし、結局、修業らしい修業は行われずに特別な魔法の力でパワーアップする。かつて修業はバトル漫画の重要な要素であったが、近時は描かれることが少なくなった。
貧困が固定化する格差社会は努力が報われない社会であり、修業して強くなるという展開には希望もリアリティも見出せない。修業をしなくても強いキャラクターは強い。バトル漫画の主人公の多くが親も名のある猛者である点も、親の経済力で子の人生が左右される格差社会の現実を反映している。修業の代わりに重視されるものが仲間との絆である。これも反格差の運動が「We are the 99%」など連帯を重視する傾向と重なる。
『FAIRY TAIL』と比較されることの多い尾田栄一郎『ONE PIECE』も修業シーンが乏しいことが特徴である。主人公モンキー・D・ルフィはガープ海軍中将の孫であり、革命家ドラゴンの息子という血統である。
それでも『ONE PIECE』は海軍大将との実力差を痛感したルフィ達が2年間を修業に充てるという過去の王道的な修行路線を踏襲した。努力よりも仲間との絆を重視するという現代的価値観を描く作品として注目を集めた『ONE PIECE』であったが、国民的な注目を集めるにつれて往年の王道漫画の価値観が入ってきている。
対する『FAIRY TAIL』が7年間の空白で生じた力の差をどのように埋めるのか注目されたが、努力よりも仲間との絆という現代的価値観を前面に出した。ナツ達は修業初日をバカンスで楽しむ。残りの修業期間の大半も遊んで過ごすことになる。これはナツ達が意図したものではないが、修業よりも絆を深めることに価値を見出す思想が現れている。
結局、修業にならなかったナツ達であるが、意外な人物達に助けられる。修業ではなく、絆によって助けられた形である。主人公達を都合よくパワーアップしてくれる御都合主義的な展開に見えるが、歪な感情を有していたキャラが明るくなったことを過去に戦ったキャラクターが素直に喜ぶなど描写が細かい。
著者は巻末の「あとがき」で「バトル漫画でありつつもギルドの絆みたいなテーマを大切にしている」と述べる。その言葉通りに絆を重視する内容となった。(林田力)
真島ヒロ『FAIRY TAIL』は魔法が使える架空の世界を舞台とした冒険譚である。魔導士ギルド「妖精の尻尾(フェアリーテイル)」に加入したルーシィ・ハートフィリアと、ナツ・ドラグニルらギルドの仲間達の活躍を描く。魔導士達に仕事の仲介等をする組合「魔導士ギルド」が各地に存在する世界で、新人魔導士の少女・ルーシィは、フェアリーテイルに憧れ、一人前の魔導士を目指す。
ギルドは人々の困った問題を解決する何でも屋のようなもので、ルーシィ達は受けた依頼を解決するために奮闘する。但し、第三者が持ち込んだ依頼であっても、依頼内容が主人公達の過去のエピソードに何らかの形で関わってくることが多い。破天荒なフェアリーテイルの魔導士達も、実は重たい過去を抱えていたことが明らかになる。依頼を解決していくことが、彼ら自身が過去と向きあうことにもなる。これによって物語に厚みを持たせている。
第32巻は大陸(フィオーレ)一のギルドを決める大会の本戦である。大会本選は5日間。競技パートとバトルパートの2種目が毎日行われる。7年間の空白で弱小ギルドに零落した「妖精の尻尾」の復活を印象付けたいところであるが、緒戦の結果はイマイチであった。安易に主人公サイドに勝利を与えず、今後に期待を持たせる展開である。
バトルの大会となると数多くのキャラクターが登場し、一人一人のキャラクターの印象が薄くなりがちである。それは漫画の人気を低迷させる危険がある。これに対して、フェアリーテイルではキャラの個性が豊かである。
この巻ではルーシィがバトルに出場する。ナツやエルザの活躍で戦闘要員としては印象の薄いルーシィであるが、ここでは一対一のバトルで実力を見せ付ける。対戦相手は卑怯・卑劣な手を使うが、ルーシィは実力で圧倒する。王道的なバトルが展開された。
この対戦相手は病的な目つきをした赤髪の女性である。漫画家の描くキャラクターは顔がパターン化してしまいがちである。このキャラもエルザと同じ顔になりそうなところであるが、病的な目つきによって描き分けることに成功した。(林田力)