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延坪島砲撃事件による朝鮮学校無償化停止の不当

日本政府は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による砲撃事件を理由に朝鮮高級学校の無償化適用手続きの一時停止を表明した。これは日本政府の人権意識の低さを世界にさらけ出すものである。
韓国と北朝鮮の間では2010年11月23日に北方限界線(NLL; Northern Limit Line)で砲撃戦が行われた。北方限界線は韓国側が一方的に設定した黄海(西海)上の南北軍事境界線であり、北朝鮮は同意していない。23日は北朝鮮の中止要請を無視して韓国軍が実弾発射訓練を実施し、その中で砲撃事件が勃発した。韓国は北朝鮮が砲撃してきたと主張するが、北朝鮮は「韓国が先に挑発したため、対応措置を取った」とする。
北朝鮮は韓国海兵隊の基地がある黄海上の離島・大延坪島を砲撃した。被害は島内の市街地にも及び、民間人の死傷者も出た。建物の多くが破壊され、島民も多くが韓国本土へ避難した。北朝鮮側の被害は現在のところ、公表されていない。
市街地を砲撃し、民間人を死傷させた北朝鮮の攻撃を非難する声は大きい。一方で被弾した民間施設の建物には、かつて軍関係施設だったものもあり、北朝鮮が現在でも軍関係施設であると認識して精密照準砲撃したとの指摘もある。これによれば北朝鮮の砲撃は必ずしも無差別攻撃ではなく、米軍によるイラクやアフガニスタンでの爆撃と同レベルの悪である。
米国も中国もロシアも、それぞれニュアンスは大きく異なるものの、安定のために自制を求める点では共通する。米国の北朝鮮問題を担当するボズワース特別代表は11月23日に中国・北京で中国側と会談し、両国が自制した対応を取ることで一致した。
この点で北朝鮮の砲撃を「許し難い蛮行」とし、北朝鮮非難・韓国支持一辺倒の日本は国際社会から浮いている。六カ国協議でも日本は拉致問題に拘泥し、北朝鮮を過度に敵視するために障害になっているとの批判がなされたが、延坪島事件でも同じ論理が該当する。
日本は国内でも砲撃事件を理由に朝鮮学校の無償化適用手続きを停止した。高校無償化は歴史的な政権交代を果たした民主党政権の目玉政策の一つであるが、朝鮮学校の適用問題で味噌を付けた。
騒動の発端は中井洽・拉致問題担当相(当時)である。北朝鮮への経済制裁と整合性がとれないとし、川端達夫文部科学相(当時)に無償化の対象から外すように要請した。結局、朝鮮学校を対象にするかの判断は先送りされた。国連の人種差別撤廃委員会は2010年3月16日に朝鮮学校の除外は人種差別になると指摘し、改善を勧告した。
北朝鮮への制裁は政策(ポリシー)の問題である。無償化の対象から朝鮮学校を除外することは、朝鮮学校に通う生徒を他の高校生から差別することになる。この差別を許すことは、政策を朝鮮学校生徒の平等権よりも上に置くことになる。これでは時の政府の政策によって、どのようにでも人権が制限されてしまう。
人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである(日本国憲法第97条)。政策によって左右できるものではない。それ故に朝鮮学校差別は日本国民にとっても看過できない問題である。心ある日本人から朝鮮学校を対象に含めることを求める声が出ることも当然の成り行きである。
ようやく、高木義明文部科学相が「外交上の問題によって(無償化適用の是非を)判断すべきではない」との考えを示し、朝鮮学校も無償化に向けて進み始めた。その矢先の一時停止である。全国朝鮮高級学校校長会の慎吉雄(シン・ギルン)会長らは11月25日、東京都内で会見を開き、抗議声明を発表した。「朝鮮半島の事態と生徒は関係なく、理不尽極まりない」と主張する。
菅直人首相は24日に「私の方から高木文科相に対してプロセスを停止してほしいと指示を出した」と述べ、無償化停止が首相の指示であったことを認めた。菅首相は市民運動出身で世襲政治家ではない点で好感を抱かれたが、市民運動時代の活動も含めて市民派としての感覚には疑問の声が出ていた。
菅氏は民主党のトロイカ体制を支えた鳩山由紀夫氏や小沢一郎氏と異なり、対米従属路線に挑戦する姿勢も見せていない。「最低でも県外」と発言していた鳩山氏が米軍普天間基地の辺野古移設に変節したように、鳩山・小沢両氏の対米従属路線見直しの本気度については議論がある。しかし、菅氏からは対米従属路線見直しの意欲すら感じられない。この点で左派が民主党代表選で菅氏ではなく、小沢氏を支持したことには合理性があった(林田力「尖閣弱腰外交が管直人を救う可能性」PJニュース2010年9月29日)。
そして菅氏は朝鮮学校の無償化停止を率先して指示することで、人権面でも市民派として看板倒れであることが露呈した。
政治の場で在日外国人の人権制限が決められてしまうならば、在日外国人にとって日本の政治に参加することは死活問題になる。もともと外国人参政権は必ずしも在日外国人の総意ではなかった。
在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は外国人参政権に明確に反対する。朝鮮総連の反対は外国人参政権反対派に都合よく利用される傾向にあるが、実態は複雑である。朝鮮総連は日本社会の差別によって民族的尊厳が損なわれている実態を問題視する。日本国民の延長線上にある参政権よりも、教育や生活・企業活動などで民族的な権利の確立を優先する。
しかし、政治の場において在日コリアンへの差別がまかり通るならば、民族的権利を守るためにも外国人参政権が必要という議論が生じる可能性がある。この点は、在日コリアン弁護士協会『裁判の中の在日コリアン』(現代人文社、2008年)という書籍が象徴的である。
本書は在日コリアンを当事者とした裁判や事件をまとめたものである。在日コリアンは在日韓国・朝鮮人とも呼ばれるが、この記事では本書の呼称にあわせて、在日コリアンで統一する。本書は副題に「中高生の戦後史理解のために」とあるとおり、平易な言葉で分かりやすく説明しており、専門的な法的知識がなくても読み進めることができる。
本書は多くの日本人に読んで欲しいと思える一冊である。在日コリアンの問題は在日コリアンだけの問題ではない。在日コリアンの尊厳が守られていないという状況は、日本で生活する人全てにとっても人権の危機である。本書は日本に暮らす全ての人が尊厳をもって生きていけるような社会を構築するための重要なテキストになる。
本書で紹介された在日コリアンをめぐる裁判や事件は実に多岐に渡る。刑事事件、従軍慰安婦、BC級戦犯、サハリン残留コリアンの帰還問題、日本国籍確認訴訟、就職差別、教育権、ウトロ裁判、入居差別、ゴルフ会員権差別、指紋押捺拒否訴訟、無年金差別、管理職裁判、司法修習生、調停委員・司法委員、地方参政権である。
驚かされるのは本書の裁判や事件が現代日本の法的論点の多くをカバーしていることである。私は大学及び大学院で法律学を専攻したが、本書の判決は大学の講義で紹介されたものも少なくない。私が殊更、在日コリアンの問題に集中していたわけではない。
在日コリアンが当事者となった裁判の判決の多くが、良い内容であれ、問題のある内容であれ、司法の場では先例となっているという現実がある。在日コリアンの問題を掘り下げれば、日本の社会と歴史が見えてくるのである。副題の「戦後史理解のために」は決して誇大広告ではなく、文字どおり、在日コリアンの裁判が戦後史理解の鍵になる。
より驚かされるのは在日コリアンの抱える問題が、一般の日本人にとっても決して他人事ではないことである。在日コリアンは日本社会においてマイノリティーである。同質性の強い日本社会を当然視する日本人が在日コリアンの問題について関心が低い傾向は否めない。
本書は「はしがき」で「在日コリアンと呼ばれる民族的なマイノリティー(少数者)が戦後の日本社会をどのように生きてきたかを知ってもらうこと」を本書の目的の一つとする。ここには、これまで在日コリアンの問題について広く知ってもらいたいという思いがある。日本社会が直視してこなかった在日コリアンの問題に光をあてただけでも本書には意義がある。
しかし、本書を読めば、在日コリアンが抱える問題は在日コリアンであるが故の問題とは言い切れないことが分かる。確かに在日コリアンは在日コリアンであるが故に差別され、非合理な扱いを受けている。しかし民族の相違が根本的な問題ではない。在日コリアンを差別する日本社会は、日本人に対しても同じように牙を向けることを認識する必要がある。
金喜老事件では静岡県警による民族差別が問題になったが、当の警察官は「私には朝鮮人を侮辱したことは身に覚えのないことであるが、万一そういうことがあったら謝罪する」と何ら謝罪になっていない相手の感情を逆撫ででする発言で応じた(本書54頁)。過去の問題を直視しない警察組織の不誠実は、日本人に対する冤罪事件でも見られるものである。
また、在日コリアンは日本国籍を持たないという理由で就職や入居を断られている。これも在日コリアン特有の問題ではない。たとえば老人も同じである。就職したいと思っても年齢制限に引っかかることが多い。独居老人には家を貸してくれないことも多い。
在日コリアンの差別を放置・助長するような政府では日本人の人権を保障してくれるかも疑わしい。日本国憲法が保障した自由や平等や個人の尊厳が、いかに日本社会に定着していないか、愕然とする思いで本書を読んだ。この意味で差別を是正するための在日コリアンの裁判闘争は、日本人の人権状況も向上させるものである。
最終章では「残された課題」と題して在日コリアンの参政権の問題について紙数を割いている。裁判によって権利回復を図ろうとしてきた在日コリアンが参政権に行き着くことは当然の帰結であった。何故ならば多くの判決が、在日コリアンへの配慮が欠いている現状を認めつつも、立法政策の問題として在日コリアンを敗訴させていたためである。
どのような法制度を採用するかは国会が決める問題である。そのため、裁判所は国会の判断を尊重し、法律が存在しないのに、または法律に反してまで在日コリアンを救済することに消極的であった。このような裁判所の姿勢は司法消極主義と呼ばれ、強い批判も存在する。
司法消極主義が正当化できるとしたら、国会が国民の代表者である国会議員によって構成されているためである。国会議員が国民の代表者であるという図式(治者と被治者の自同性)が成立する限りにおいて、国会の議決は国民の意思を反映したものとなる。仮に国会の議決が不当であり、国民の利益を損なうものであるならば国民は次の選挙で国会議員を代え、法律を改廃することができる。故に裁判所としては国会の判断を尊重すべきとの結論が導かれる。
この司法消極主義の論拠に対しては少数派を考慮していないとの批判がある。そして少数派の権利を守ることこそ、司法の務めであると問題提起されている。一方で在日コリアンにとって司法消極主義は不合理である。在日コリアンには選挙権・被選挙権がないためである。在日コリアンには自分たちの代表を選ぶ権利がない。それなのに裁判所は国会で決めるべき問題であるとして門戸を閉ざしてしまった。司法消極主義の傾向が強い日本の裁判所は法律による差別に鈍感であり、法律自体を改廃しなければ権利回復ができない。在日コリアンは参政権を持たなければ救済されない。
高校無償化での朝鮮学校差別は政治の場で人権が軽視されていることを示した。人権意識の低い日本では、在日外国人は政治に参画しなければ自らの権利を守ることができないかもしれない。それは日本の人権状況の改善にもつながることである。

日本による朝鮮人虐殺シンポジウム「コリアン・ジェノサイド」で近代史を考える

日本と朝鮮半島の真の友好を目指す市民団体・「韓国併合」100年市民ネットワーク・関東がシンポジウム「コリアン・ジェノサイド」を2009年9月27日に月島区民館(東京都中央区)で開催した。100年市民ネットワークは日本が1910年に韓国併合条約を強要してから2010年で100年となる節目に向け、日本による植民地支配の罪責を省み、真の友好の実現を目指す団体である。
今回のシンポジウムでは日本の植民地支配による朝鮮人虐殺をジェノサイドとして捉え直した。パネラーは趙景達・千葉大学教授と前田朗・東京造形大学教授の二名である。
最初は趙教授による「東学農民軍へのジェノサイド」である。ここでは東アジア近代氏の立場から甲午農民戦争における日本軍の朝鮮人民虐殺を解説した。甲午農民戦争は日本の帝国主義的な経済進出によって疲弊した農民による反乱で、日清戦争の導火線になった。
この中で日本軍は農民反乱鎮圧という名目で朝鮮人民を虐殺した。趙教授は少なく見積もって死者数を3〜5万人とする。東学(農民軍の中心となった宗派)側の資料には20万〜30万人との記述もある。
日本軍が農民兵と疑った人民の殺害方法は酷いものであった。物資の足りない日本軍は弾丸を可能な限り使わないために銃で撲殺した。ここには戊辰戦争における虐殺や略奪・放火経験からの暴力に対する不感症があった。この虐殺は日本が海外で最初に行ったジェノサイドであり、旅順虐殺や南京大虐殺につながっていく。
このように日本の近代は暴力に終始することになるが、徴兵された日本兵も、父子家庭で自分が徴兵されると子どもを養えなくなるため、子どもを殺して従軍した兵士など悲惨であった。前線の将校には自殺者も出ており、趙教授は虐殺を苦にしたためと推測する。コリアン・ジェノサイドについて趙教授は朝鮮に甚大な被害を与えただけでなく、日本民衆にとっても悲劇であったとまとめた。
また、趙教授は司馬遼太郎史観に代表される俗説的見解に対して新鮮な視点を提供した。日清戦争については朝鮮の支配権をめぐる日清間の戦争という視点がある。歴史の教科書に掲載されているジョルジュ・ビゴーの風刺絵(日本人と中国人がコリアと書かれた魚を釣ろうとしている)が典型的である。この視点を趙氏は朝鮮史の立場から否定する。日清戦争は一方的に朝鮮を侵略しようとした日本に対し、朝鮮民衆と朝鮮を援けようとした清国の戦いと位置付ける。
日清戦争開戦時に日本が採った方法は不意討ちであった。これは太平洋戦争の真珠湾攻撃まで常に日本の一貫した戦術となる。趙氏は不意討ちを必ずしも卑怯とは考えないが、自信のなさの表れとする。成り上がりの帝国主義国家の発想である。
氏は近代化を進めた日本社会の特殊性について興味深い指摘をした。一般に思われていることとは逆に韓国人のナショナリズムは日本人よりもはるかに弱いという。日本でも江戸時代はナショナリズムが弱かった。しかし、江戸時代には極度に規律化された村社会が成立しており、明治維新後は天皇制を押し付けることで村意識を国家意識に容易に転嫁できた。
これに比べると韓国の村は開放的である。現代の韓国の街を歩くとスローガンが目に付くが、これは韓国社会が全体主義的だからではなく、反対にスローガンを掲げなければまとまらないほど個人主義的だからである。日本の歴史学者には戦前への反動から江戸時代を再評価する動きがあるが、近代国家を形成しやすくした面があるとしても息苦しい社会であった。
若年層に広がっている嫌韓については新自由主義の影響を指摘した。新自由主義の下では過酷な競争が行われ、敗者は自己責任とされる。国家や社会を責めることができない中で外国人への陰湿な暴力やヘイト・スピーチに向かってしまうという。
続いて前田教授による「コリアン・ジェノサイド」である。コリアン・ジェノサイドには大きく3つあるとする。植民地支配のジェノサイド、関東大震災ジェノサイド、現在も続く文化ジェノサイド(在日朝鮮人差別・排除)である。今回は関東大震災における朝鮮人虐殺を中心に説明した。
関東大震災の朝鮮人虐殺の本質は震災の混乱時の流言飛語に惑わされた民衆の蛮行ではない。それ以前から軍隊は組織的に朝鮮人狩りを行い、警察は朝鮮人暴動発生というデマを流した。この動きを知った民衆が各地で自警団を組織して大虐殺に発展する。その上で前田氏は国際法におけるジェノサイドの定義を説明し、朝鮮人虐殺は国際法上のジェノサイドに該当すると主張した。
次に前田氏は石原慎太郎都知事の三国人発言や安倍晋三元首相による従軍慰安婦(日本軍性奴隷)の強制性否定発言の問題を明らかにした。
最後に前田氏は、日本は国境が画定していない国であると指摘した。小笠原諸島や蝦夷地を国内植民地として組み入れた。歴史教科書では北海道開拓のために屯田兵を置いたと簡単に説明されるが、これは植民地支配の尖兵である。
海外植民地は台湾、南樺太、朝鮮、ミクロネシア(南洋諸島)などと広がっていった。日本が委任統治したミクロネシアへの移民者の多くは沖縄県出身者であった。沖縄県民は日本の侵略戦争の被害者であるが、ミクロネシアとの関係では加害者の立場に立つ。このような視点を持つと重層的な思考ができるとした。
質疑応答では歴史認識の本質を突くやり取りがなされた。
質問「併合が韓国の近代化に貢献したとの主張について、どう思うか」
趙教授「当時の韓国社会が問題を抱えていたとしても、併合を合理化することにはならない。それは抵抗する隣人を何人か殺して立派な家を建て直して何が悪いかという開き直りと同じである」
質問「日露戦争を朝鮮がロシアの植民地となることを防ぐための戦争とする見方について、どう思うか」
趙教授「日本には吉田松陰のように幕末から一貫して征韓思想があり、日本には朝鮮を植民地化する野心が最初からあった。日本が外国勢力を排除するために朝鮮の中立化を掲げたこともあったが、自国が朝鮮を植民地化するためのステップに過ぎない。日露戦争は防衛戦争ではなく、むしろ日本には朝鮮を基盤に満州を侵略しようとの意図があった」
シンポジウム最後の趙教授の発言が印象的であった。現代日本において愛国心は麗しい言葉ではないとする。それは愛国心の名においてジェノサイドを正当化したという歴史があるためである。
一方で伊藤博文を暗殺した安重根に対して、当時の日本社会には義士と称える声があった。そこには同じ愛国者として民族の独立を願う行動への共感があった。ここから真の愛国者は外国人の愛国心も理解するという開かれた愛国心の可能性があるとした。
日本人は、被害者意識は豊富だが、加害者意識は希薄であると指摘される。この点は拉致問題を抱える北朝鮮への対応で日本が国際社会から浮いてしまう要因にもなっている。他国民の視点に立つということが最も日本人に欠けていることであり、貴重な指摘であった。(林田力)

100年前の安重根義挙への連帯

孟子に「舎生取義」(しゃせいしゅぎ)という言葉がある。「命を犠牲にしても正義を行う」という意味である。また、論語には「殺身成仁」(さっしんせいじん)という言葉がある。「身を殺して仁を成す」という意味である。これらの言葉を用いて100年前に日本人から賞賛された人物がいる。韓国の独立運動家・安重根(アン・ジュングン)である。
安重根は1909年10月26日に中国・ハルビンで伊藤博文を射殺した。伊藤は初代韓国統監であり、和服を着せられた韓国皇太子と一緒に写っている写真が示すように日本の韓国侵略の象徴的人物であった。その伊藤を射殺した安重根を幸徳秋水は以下の漢詩で称えた。
舎生取義 殺身成仁 安君一挙 天地皆震
幸徳は1901年に刊行した『廿世紀之怪物帝国主義』において日本の侵略的傾向を強く批判していた。対外膨張を国家の発展と無批判に肯定する世論の中で、帝国主義は国内の貧富差から目を背け、専制政治家の名誉心と野心を満足させるための手段であると冷静に分析した。幸徳にとって日本の侵略と戦う韓国の人民は共感と連帯の対象であった。
幸徳が逮捕された大逆事件と韓国が植民地化された韓国併合は共に1910年の出来事である。日本でも韓国でも侵略と差別に反対する人民は弾圧されていった。他民族を支配・搾取する政府が自国民を守ることはない。支配・搾取の対象は自国民にも向けられる。
平和憲法を有する現代の日本でも経済進出という形での帝国主義的側面は存在する。また、過去の戦争犯罪の追及も十分ではない。そのために海外の市民運動が「反日」という形で噴出することは自然である。反日の声に嫌韓や嫌中で条件反射するのではなく、共感と連帯で応えられるか。100年前の幸徳に学ぶべきことは多い。

南京大虐殺の生存被害者の勝訴記念集会

南京大虐殺事件の生存被害者である夏淑琴氏の勝訴を記念する集会「夏淑琴さん名誉毀損裁判 大勝利記念集会」が2009年7月5日に東京・江東区豊洲文化センターで開催された。南京への道・史実を守る会及び夏淑琴氏名誉毀損事件弁護団の共催である。
夏淑琴さん名誉毀損裁判は夏氏が東中野修道・亜細亜大学教授と展転社を名誉毀損や人格権侵害で提訴した訴訟である。夏氏は1937年に南京市を占領した日本軍が多数の一般市民を虐殺した南京大虐殺で両親や姉妹を殺され、自身も銃剣で刺された被害者である。この夏氏について、東中野修道・亜細亜大学教授は著書『南京虐殺の徹底検証』(展転社)で「「8歳の少女」と夏淑琴は別人」とニセ被害者扱いした。
この事実を知った夏氏は2000年11月に中国・南京で名誉毀損訴訟を提起した。東中野氏と展転社は中国では争わず、代わりに東京地裁に日本国内での賠償金支払いの債務不存在確認訴訟を起こした。対する夏氏は名誉毀損侵害などの反訴で応じた。
一審・東京地裁2007年11月2日判決では「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しない」と夏氏が勝訴した。控訴審でも地裁判決が維持され、最高裁が2009年2月5日に上告を棄却することで、夏氏の勝訴が確定した。
集会は二部構成で、第一部は史実を守る会の総会である。会計報告や役員選出、今後の活動方針発表などを行った。第二部で夏氏をはじめとする訴訟関係者が裁判の意義を語った。
夏氏は「勝訴は大変嬉しい」と語った。心残りは東中野氏の謝罪がなかったことという。提訴当初から東中野氏に会いたいと主張していたが、東中野氏は一度も来なかった。彼に会って、私が本物であることを認めさせたいと発言した。
中国側の弁護団長である団シン(至へんに秦)弁護士は最高裁判決が出た2月5日を中日司法史上記念すべき日と位置付けた。その上で夏氏の反訴に至る日中弁護士間の協議の裏話を披露した。東中野氏らが東京地裁で債務不存在確認訴訟を起こしたことに対し、東中野氏らには中国で裁判する勇気はないが、夏氏は本物であるため東京で戦うことができると日中の弁護士は分析した。反訴が決まると日本側は弁護団を結成し、全力で取り組んだ。彼らに日本人の正義や平和を求める信念を見ることができたと称えた。
日本側の弁護団長の渡辺春巳弁護士は「許す、しかし忘れない」という夏氏の言葉の含蓄を東中野氏は理解すべきと主張した。あれだけの被害を受けながら、寛容の言葉を口にすることは中々できないとした。名誉毀損裁判については日本国民の理性が問われた裁判とする。東中野氏の論拠は「突き刺した」を「突き殺した」と誤訳することなどに基づいた粗末なものであり、それで偽被害者と非難する欺瞞を見破れなければ国民として問題であると述べた。
守る会共同代表である笠原十九司・都留文科大学教授は南京大虐殺を否定する日本の右翼層の言説は南京大虐殺被害者を苦しめる第二の加害行為になると強調した。また、東中野氏が笠原氏の著書(『南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか』)を出版した平凡社に送付した抗議文を読み上げ、東中野氏は反省していないと糾弾した。抗議文では夏氏を別人と書いただけであると正当化し、ニセ証人扱いして夏氏の人格を貶めたことへの反省は皆無である。それ故に史実を守る運動を続け、多くの人に伝えることが大切であると結論付けた。
事務局からは守る会名義で東中野氏に配達証明で謝罪を求める手紙を送付したが、本日まで返事がないとの報告がなされた。当初の文面は本日の大勝利記念集会に来ての謝罪を求めるものであった。しかし、集会を告知した結果、それが悪用されて右翼に集会が妨害される危険があるため、集会の存在を伏せた文面になったという。
ここには映画『靖国』上映騒動と同じく、日本社会において戦前を批判する表現や集会の自由の基盤が脆弱であることを実感させられた。そのような現実があるからこそ、日本の戦争犯罪を直視し、歴史の改ざんを許さない運動を広げることが重要になる。そして、そのような運動に取り組む日本人の存在が政府高官の失言などで失墜した日本の国際的評判を回復させ、外国との友好関係の強化に寄与することになると考える。(林田力)

主権回復を目指す会が在特会を批判

京都朝鮮第一初級学校への威力業務妨害事件で依頼された弁護士を巡り、主権回復を目指す会の西村修平代表は2010年8月13日に在日特権を許さない会(在特会)を批判した。この問題は現代日本における右翼的アプローチの行き詰まりを示しているように思われる。
在特会の西村斉容疑者ら4人は2009年12月に京都市南区の京都朝鮮第一初級学校周辺で拡声器などを使って授業を妨害したとして、2010年8月10日に威力業務妨害容疑で逮捕された。彼ら容疑者のために在特会が手配した弁護士の所属する法律事務所について、西村代表は在日コリアンの差別撤廃を掲げる弁護士で構成されていると批判した。
これに対し、在特会側はウェブサイトの掲示板で以下のように説明した。
「今回逮捕された4名と早急に接見する為に関西の在特会会員の有志の方に弁護士を探して頂きました。(接見には弁護士の同席が必要です)
直ぐに連絡の取れた弁護士に今回の同席を依頼しました。お陰さまで、4名との接見、差し入れ等が出来ました。」
その上で今回依頼した弁護士は早急な接見のためであり、裁判となった場合の弁護士は決めていないとする。在特会側の説明は西村代表の批判する事実を否定するものではない。反対に容疑者と早急に接見するための緊急措置であったと読める。緊急に対応できる弁護士を探したところ、人権派だったというところが正直なところであろう。
ここに日本の現実がある。日本では実際に苦しんでいる人々の受け皿になりうるものは左派系の団体や運動ばかりである。年越し派遣村では支援団体の思想的背景を問題視する論調が散見されたが、そのような団体でなければ派遣切りにより困窮する人々を救済しようとしない点が日本の現実である。在特会にとっても幹部の逮捕という窮地において、迅速に対応してくれた存在が人権派弁護士であった。
若年層が右傾化した原因として、格差拡大など日本社会の矛盾がある。ネットカフェ難民や内定取り消し、ニート、派遣切り、ワーキングプアなど矛盾を背負わされた若年層が社会に疑問を抱き、政治意識を高めることは当然である。
しかし、その怒りを在日コリアンや労働組合・左派市民運動に向けることが正しいかは疑問である。日本社会の矛盾は少数派の反日売国勢力が社会を歪めているために生まれたものだろうか。むしろ体制側が矛盾を構造的に作り出しているのではないだろうか。
私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。それ故に虐げられた人々の社会への怒りは大いに共感できる。
一方で東急不動産だまし売り裁判では怒りの矛先を正しい相手に向けることの難しさも実感した。マンション住民同士の対立、管理会社に抱き込められた管理組合役員、地上げブローカーの暗躍など、だまし売り被害者を消耗させ、結果的に東急不動産への責任追及を鈍らせかねない出来事にも遭遇した。
ネット右翼と呼ばれる人々も社会の矛盾によって傷つけられた自尊心を民族的自尊心で穴埋めすることが正しい解決策であるか、それこそが矛盾を作り出す体制の思う壺ではないか、考える必要があるだろう。

若年層右傾化の背景と限界

日本社会、特に若年層の右傾化が大きな問題になっている。ここではネット右翼など若年層の右傾化の背景を分析し、その問題点を論じる。
右傾化の脅威は一時期ほど強調されなくなった。それは行動する保守の行き詰まりが原因である。在日特権を許さない市民の会(在特会)らの幹部は京都朝鮮第一初級学校や徳島県教組への威力業務妨害容疑で逮捕された。主権回復を目指す会では内紛が勃発し、解散会議が開催された。行動する保守は左派市民運動の手法を取り入れて伸張したが、過激化や内ゲバという極左の悪しき習性も伝染してしまった。
一方で尖閣諸島沖での海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突事件では、幅広い層に嫌中感情と管直人政権の弱腰への反感が見られる。一部の突出した勢力は叩かれたものの、右傾化自体は国民に浸透している。それ故に右傾化の背景を分析することは今日でも意味がある。
若年層が右傾化する背景は格差社会化である。ネットカフェ難民や内定取り消し、ニート、派遣切り、ワーキングプアなど若者を取り巻く環境は厳しい。若者は貯金することも結婚することもできなくなった。ルサンチマンが鬱積した若者を中心とする人々が、自らの卑小な自尊心の代わりに民族的自尊心で代償するようになった。この分析は既に指摘されている内容であるが、実は半分しか回答になっていない。
現代日本の若者が虐げられ、搾取されていること、そして虐げられた人々が政治意識を高めることまでは説明できる。しかし、政治意識に目覚めた結果、右傾化すること、弱者(たとえば差別に苦しむ在日韓国・朝鮮人)に冷酷になれることは当然の帰結ではない。
不当に支配されている人間は、支配者に怒りと憎しみを抱く。戦後日本の支配体制は一貫して右の側であった。社会に不満があるならば左傾化が自然である。また、虐げられた人々が他の弱者の一層の不幸を望むことは、人間の浅ましい側面であるとしても、真面目に問題意識を持つ人の態度ではない。
それにもかかわらず、右傾化してしまう心理状態は以下のように説明できる。本来ならば支配者に反抗するところであるが、自分に自信を持てない人間は反抗できない。ひたすら耐えながら恨みを蓄積させていくしかない。鬱積した怨恨を抱きながら、支配の重圧に甘んじなければならない人間の心は奇妙に変化する。
現状に耐えかねて、支配者に同化しようとする。そして自分が支配者になったと勘違いすることで、支配されている状態を忘れ、自分を慰める。これがマイノリティーである在日韓国・朝鮮人や社会的弱者のために闘う労働組合を攻撃する心理的背景である。
結論として右傾化した人々が社会に不満を抱いた出発点は正しいものの、その後に歪みが生じてしまった。これでは真の問題解決を遠ざけるだけである。その限界が浮き彫りになる論文として、論座2007年1月号に掲載された赤木智弘「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」がある。
賛否は別として、この論文は右傾化した若年層の心理を説明するものとして大きな話題になった。格差社会の日本で貧困から抜け出せないフリーターの著者が「国民全員が苦しむ平等」である戦争にしか希望を見出せないと主張した。
赤木氏は戦時中に徴兵され陸軍二等兵となった丸山眞男が中学にも進学していない一等兵に執拗にイジメられたエピソードを紹介する。そこから以下のように主張した。
「戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。」
この論文は戦前の軍国主義への反省をベースとする言論界には大きな衝撃を与え、強い批判もなされた。しかし、非正規労働者の置かれた悲惨な状況への認識の欠けた批判は、たとえ建前論としては正しくても赤木氏には単なる綺麗事にしか映らない。そして非正規労働者の置かれた状況が改善されていない現在でも本論文は依然として力を持っている。
私も赤木氏と同世代であり、「社会の歪みをポストバブル世代に押しつけ、経済成長世代にのみ都合のいい社会」との不満は直感的に理解できる。私自身も東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされ、社会の矛盾を嫌というほど味わった(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。
それ故に虐げられた人々の気持ちには大いに共感する。若年層を中心とするプレカリアートは矛盾が恒常化する絶望的な状況に置かれている。これが認識の出発点である。それ故に戦争にでもならなければ丸山眞男のようなエリートを殴るチャンスはないと考える。そして現状を破壊する出来事の発生に希望を抱く。
問題はインテリを殴る程度の希望で良いのかという点である。現体制に不満を抱いているならば、何故、体制の頂点に君臨する人物を殴りたいとは思わないのか。たとえば「天皇をひっぱたきたい」とは考えないのか。インテリを殴ることは代償行為にしかならない。
そして「天皇をひっぱたきたい」ならば戦争ではなく、革命を希望しなければならない。戦争は日常を破壊するとしても、現体制を守ることが目的である。戦争に組み込まれることは現体制の歯車になることである。
生きる意味すら見出せない悲惨な人生では現体制の歯車になった方が、まだ自尊心を満足させられるかもしれない。しかし、それは現体制に虐げられた者の希望として、あまりに卑小である。国家そのものとまで称されたフランス国王が死刑になったフランス革命のように革命こそが逆転の希望を抱けるものである。
天皇ではなく丸山眞男を殴りたいとする赤木氏自身には論理の一貫性がある。赤木氏の怒りの矛先は権力者ではない。「貧困労働層を足蹴にしながら自身の生活を保持しているにもかかわらず、さも弱者のように権利や金銭を御上に要求する、多数の安定労働層」に向けられている(「けっきょく、「自己責任」ですか 続「『丸山眞男』をひっぱたきたい」「応答」を読んで」論座2007年6月号)。
何故ならば「金持ちや権力者が恵まれているのは、血筋や家柄という固有属性を持っているからであり、彼らが戦争で死んだとしても、その利権は、固有属性を持たない私には絶対に回ってこない」からである。ここには血筋や家柄は覆すことができないという諦めがある。日常を根本的に覆す戦争を望みながらも、格差社会の前提を受け入れてしまっている。
ここにネット右翼の限界がある。体制の根幹に位置する巨悪には目をつぶり、自分達と近い立場を攻撃することで満足する。「自分達はフリーターなのに、在日コリアンが自営業者であるのは許せない」的な発想である。そこにとどまっている限り、ネット右翼は体制に利用されるだけで、社会を変革する真面目な運動にはなりえない。
このように若年層の右傾化は問題であるが、新たな動きも出てきた。それは世代間格差・世代間不公正に目を向け出した点である。
民族差別を助長すると批判されたものの、ネット右翼からは支持された『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)の著者・山野車輪氏が『「若者奴隷」時代』(晋遊舎)を2010年3月15日に慣行した。同書は世代間格差をテーマにしたもので、若者が高齢者に搾取されていると訴える。
多くの若年層が貧困に苦しめられているが、それらは若年層の責任ではない。元凶は異常なまでの高齢者への優遇であると同書は主張する。『マンガ嫌韓流』で韓国・朝鮮人に向けられていた憎悪のターゲットを高齢者に移したような書籍である。
予め断っておくが、私は『マンガ嫌韓流』を支持しない。反対に『マンガ嫌韓流』を支持する層(ネット右翼)が広がっている現状を憂慮している。しかし、『マンガ嫌韓流』の著者が高齢者批判を展開したことは若年層右傾化の方向性を理解する鍵になるため、ここで取り上げる。
私は若年層の右傾化の背景を格差社会化による若年層の貧困と分析した。非正規雇用の拡大など若年層が割りを食っていることは事実である。その意味で若年層が世代間格差に目を向けることは正当である。この点の認識が左派には決定的に欠けていた。これは左派が社会に不満を抱く若年層を取り込めず、若年層が右傾化した外部要因でもある。
私は右派でも左派でもない。私が社会性を強めた契機は東急不動産との新築マンション購入トラブルであった。右派であるか左派であるかは問題外であった。ケ小平氏は「黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫」と発言したが、私も東急不動産だまし売り裁判の助けになるならば党派やイデオロギーは問題にならなかった。
しかし、新築マンションだまし売りに苦しむ私に共感してくれた存在は決まって左派であった。日本には実際に苦しんでいる人々の受け皿になりうるものは左派系の団体や運動ばかりという現実がある(林田力「主権回復を目指す会が在特会を批判」PJニュース2010年8月21日)。
私が左派に見えるならば、苦しむ人に冷たい日本の右派の偏狭さが原因である。この偏狭さは、草の根保守が教会を地盤とする米国などと決定的に異なる点である。
そのような私でも左派の体質に疑問を感じることがあった。平等を重視する一方で、世代間差別には無自覚な点である。その一例として私が呼びかけ人に名を連ねるメーリングリスト「CML(市民のML)」で若い女性議員を「ちゃん」付けで呼ばれた件がある。
「ちゃん」付けした当人は「自分の子どもくらいの世代の女性議員に「ちゃん」付けすることは親しみを込めてのもので、差別的意図はない」と主張した。一方で、当人は発言者に差別的意図がなくても差別の構造を生み出す発言は問題であると他者の発言を批判していた。この点の矛盾を指摘したが、問題意識が通じたかは疑わしい。
このような体質がある限り、若者から広汎な支持を得ることは難しい。世代間差別に無自覚な左派の体質への絶望と反感が、社会に不満を持つ若者を右傾化させた側面がある。前述のとおり、私はマンション購入トラブルを出発点にしているため、その助けになる限りにおいて右派とも積極的に情報交換している。彼らは左派に「団塊世代の懐古趣味」というステレオタイプなイメージを抱いている。左派のイデオロギー以前に世代間ギャップへの抵抗感が強かった。その意味で右傾化と世代間差別批判はマッチする。
私も世代間差別について問題意識を有している。それでも私が右傾化しなかった理由は新築マンションをだまし売りした不動産会社という明確な敵を認識していたためである。正しい敵を認識していたために、「在日特権」のような虚構に矛先を向けることもなかった。
世代間差別は韓国・朝鮮人差別に比べれば取り組む価値のある問題である。しかし、十羽一からげな高齢者批判は、世代間差別を生み出した制度的・構造的要因を放置してしまう。また、高齢者の中にも社会的弱者は多数存在するが、そのような層を叩いて卑小な自尊心を満足させるならば、韓国・朝鮮人差別と同じ病理に陥る。
現在日本は多くの矛盾を抱えており、若者は怒って当然である。むしろ大人しすぎるくらいである。しかし、間違った方向に怒ることは矛盾に責任のない他者(在日韓国・朝鮮人など)を傷つけ、本来の矛盾を温存させてしまうことになる。その意味で社会性に目覚めた若年層が右傾化する現状は社会にとって大きな損失である。

ネット右翼は東京都青少年健全育成条例で目を覚ませ

東京都議会の本会議で2010年12月15日に青少年健全育成条例改正案(東京都青少年の健全な育成に関する条例の一部を改正する条例)が可決された。これはネット右翼など右傾化した若年層に保守の正体を気付かせる機会になる。
改正条例は性犯罪や近親者間の性行為を不当に賛美・誇張するマンガやアニメを規制する。何が不当に賛美・誇張するものか不明確で、行政の恣意的な解釈を招き、表現の自由を萎縮させると批判されている。そのため、出版業界や日本弁護士連合会など各方面から反対表明が相次いだものの、「使命感を持ってやる」という石原慎太郎都知事のゴリ押しが通ってしまった。
石原氏は典型的な保守タカ派の政治家である。一方、ネット右翼の多くはマンガやアニメの愛好家である。これまでネット右翼は石原氏の三国人発言などを「タブー破りの発言」と持ち上げてきたが、しっぺ返しを食らうことになった。これは日本の愚民と保守権力の縮図である。
政治意識の低い日本の民衆は、おこぼれにあずかろうとして、権力者にすり寄る。しかし、権力者にとって民衆は利用するだけの存在である。散々利用された挙句、裏切られる。裏切られたことさえ気付かない愚かな民衆も少なくない。彼らは権力者にすり寄り続ける。これが誰もが問題を認識しつつも、日本で保守政治が永続した一因である。
ネット右翼も同じである。ワーキングプアやネットカフェ難民など若年層を取り巻く現実は厳しい。若年層が社会に不満を抱き、政治意識を高めることは当然である。しかし、右傾化して日本の過去の戦争犯罪を美化し、中国や韓国を貶めることは当然ではない。
そこには日本社会に不満を抱きつつも、「偉大な日本」のおこぼれにあずかりたいという甘えと煮え切らなさが透けて見える。しかし、右傾化しても救われることは絶対にない。どれほどすり寄っても、最後は自己責任などの論理で切り捨てられるだけである。せいぜい焼け野原から経済大国にするような前に進むことしかできない先人を見習って、前向きに頑張れと激励されるだけである。
私は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされた経験がある(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』ロゴス社、2009年)。この問題について私は様々な団体に相談したが、保守系の団体はソフトな対応であっても、結局は泣き寝入りを求めるものに過ぎなかった。そこで保守の論理の本質を認識した。
私は左派が全面的に正しいと主張するつもりはない。むしろ全共闘世代が牛耳る既成の左派に若年層が幻滅することは当然であるとさえ考えている。それでも日本では実際に苦しむ人々の受け皿になりうるものは左派しかないという現実がある(林田力「主権回復を目指す会が在特会を批判」PJニュース2010年8月21日)。
マックス・ウェーバーは『職業としての政治』の末尾で以下のように述べた。
「どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」をもつ。」
古い発想が支配し、若年層の思いを受け止められない既成の左派にはウンザリさせられることも多い。それにもかかわらず、苦しむ人々の立場に立つならば敵と味方を取り違えてはならない。ネット右翼も日本の保守の本性を直視し、目を覚ます必要がある。

外山恒一がmixi上で擬似交流会開催

政治活動家の外山恒一氏が2009年7月26日、SNSサイトmixiで擬似交流会を開催した。外山氏は2007年の東京都知事選挙に立候補し、「私には建設的な提案なんか一つもない」「スクラップ&スクラップ」の政見放送で一躍話題になった人物である。現在は九州を中心に活動している。
交流会はmixiユーザーである外山氏の日記「開会宣言」へコメントを付す形で行われた。日記のコメント欄でチャットを実施したことになる。当該日記はmixi全体に公開され、mixiのユーザーであれば誰でも閲覧及びコメント記入が可能である。擬似交流会には自身を右翼と主張とする人から左翼と主張する人まで幅広い層が参加した。
交流会では現代日本において現状に不満を持ち、社会の変革を志向する人々が多いのにもかかわらず、その受け皿となる団体や運動が貧弱であることが問題提起された。現実に受け皿として存在するのは左翼系の団体ばかりである。これら左翼系団体の問題は偏狭で教条主義的であることである。
この点について外山氏は以下の例で説明する。若年層の非正規労働者が労働環境の問題からフリーター労組などに接近したとする。ところが、そこでは労働問題だけではなく、憲法9条改正反対などの政治的主張を共有することまで要求されるために、自ら退会するか追い出されるかとなりがちである。
この点は記者も共感する。記者は東急不動産(販売代理:東急リバブル)から不利益事実が隠された新築マンションをだまし売りされた経験があるが、相談に乗ってくれる団体は左翼系団体ばかりであった。私自身は相談に乗ってくれるために左翼系団体の政治主張にも好意を抱いたものの、左翼系団体は主義主張以前に(主義主張では一致していたとしても)、運動の進め方というような方法論でも異論を許さない傾向にあった。そのために疎遠になった団体もある。不満を抱いている人間が多いのに、それを活かせない左翼は非常にもったいないことをしている。
しかし、左翼指導者の体質は一朝一夕で変わるものではなく、左翼が主導する限り、非正規労働者の労働運動の盛り上がりには限界があると外山氏は主張する。そして「格差拡大で国民的一体感を破壊するな」という右翼的問題意識の若い労働運動が登場することに期待した。
合わせて外山氏は既存の右翼と左翼の相互の無理解と偏見を批判した。右翼は左翼を「日本を滅茶苦茶にしようと企む犯罪者・テロリスト集団」とみなし、左翼は右翼を「また戦争をやろうと企む極悪人の集団だ」と考える傾向にある。「右も左も大多数は低レベルだ」と指摘した。右でも左でも自ら考えることの重要性を再認識した擬似交流会であった。(林田力)

差別発言

人種差別発言や女性蔑視発言は冗談であろうと本気であろうと、そういう発言をすること自体が問題である。差別発言が行われること自体が差別行為であり、冗談だから許されるものではない。支持率の高さについては、私は多くの人が支持しているという理由だけで、誰かを支持するという付和雷同型ではないので、この理由は政治家の適性を判断する上で何の根拠にもならない。これを根拠とするならば小泉首相はとても素晴らしい政治家になるだろう。

ナショナリズム 一昔前は会社人間(社蓄)と揶揄されていましたが、その会社が頼れるところでなくなったため、不安におののく人々はナショナリズムに傾斜したのだと思います。社会学者の宮台真司氏もそのようなことを述べておられました。人間は社会的動物ですから、帰属意識をもちたいという欲望は否定できません。

それがナショナリズムに向かわず、さりとて会社人間に戻らないための価値として、家族や地域コミュニティがあるように思います。これも一歩間違えると女性は家事育児をすればいいというような封建道徳に陥る危険性はありますが。家族や地域の中で地に足ついた生活を送ることが、他の存在を無視した極端な妄想に流されない鍵になると思います。右傾化の一方で、福祉や健康に注目が集まっており、このような流れに期待しています。



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