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希望のまち東京in東部読書会第1回「柄谷行人を読む」

希望のまち東京in東部は2016年4月9日(土)、第1回読書会「柄谷行人を読む」を江東区東陽の希望のまち東京in東部事務所で開催した。瀬田裕和・希望のまち東京in東部共同代表が話題提供者となった。

何故、柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』の読書会を開催するのか。「トランスクリティーク」は「移動と視差による批評」という柄谷氏の造語で、「カントからマルクスを読み、マルクスからカントを読む企て」であるという。私(瀬田)流に解釈すれば《人を中心とした経済体制》を構築する試みとなる。

今や新自由主義経済体制(グローバリゼーション)の弊害が看過できないものになっている。格差社会の拡大である。資本主義は「重商資本主義」→「産業資本主義」→「ポスト産業資本主義」と変遷し、行きすぎた資本主義は人を圧迫している。最初に重商資本主義があった。商品の移動によって利益をあげる。大航海時代に海運国が栄える。香辛料や紅茶をイギリスに持っていくと高く売れる。

次に産業資本主義が勃興した。資本が労働力を使うことによって利益を出す。それがシステム化された。但し、単純に重商資本主義と分かれるものではない。さらに金融革命やIT革命によってポスト産業資本主義に変遷している。アベノミクスを批判するだけでなく、次の社会を示唆する必要がある。

これまで所謂マルクス主義者は生産過程の中で労働者がどれだけ苦しめられていることだけに焦点をあててきた。しかし、消費過程にも目を向けるべきである。利潤は物を売ることによってしか得られない。消費過程における闘い方がある。

企業はいくら労賃を切り下げ、安い商品を作っても売れなければ剰余価値は得られない。不買運動や生活協同組合がある。消費者は、この企業のものは買わないということはできる。商品が売れなければ企業は潰れる。中国製でも品質面では問題なくなっている。消費欲は減っている。日本には「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」の「足るを知る」意識がある。不正は許さないという意識がある。

グローバリゼーションを批判するが、最終形態もグローバリゼーションではないか。良いグローバリゼーションと悪いグローバリゼーションがあるのではないか。民族はある。国の中の地方のような問題である。

ヘーゲルも所謂マルクス主義者も自分が神様になったつもりで社会を論じている。これに対して、あくまで自分主体で考えていくべきではないか。対馬の住民にとっては東京よりも釜山の方が親近感を持つという意味で国家意識をなくすことが理想である。

新自由主義思想には古い日本の土建国家を打破する思想的な希望という側面があった。国家主導の計画経済に対し、個人本位の自由な経済を実現する思想的背景にすることも可能である。新自由主義思想を正しく読み取るというアプローチも考え方の選択肢としては成り立つ。マルクス主義と言えば通俗的なマルクス主義の印象が強い。逆に何故マルクス主義でなければならないかが問われる。

新自由主義に対しては「弱い人はどうするのか、負けた人はどうするのか」という疑問がある。その対抗軸としてローカルがあるのではないか。新自由主義の問題は利潤追求優先主義である。貧困と格差が拡大すれば、貧困者向けの貧困ビジネスが生じる。

資本主義を超える価値として、互助が重要である。皆がぶら下がっていればいいというものではない。資本主義は自由という言葉を大事にする。何に対する自由かが問題である。未開とされているような文化に優れた知恵がある。モノの拡大としての 飽くなき利潤追求ではなく、ヒトとして共生社会を作りあげていく

行政の援助から自立して地域単位で循環する仕組みが作れれば大きな力になる。一つの例としてソンミサン・マウルがある。高い金を払って大学に通わせる必要はない。日本は色々と無理している。運転免許更新時の教習は利権である。意味のある教育ではなく、警察の利権になっている。パナマ文書で明らかになったタックス・ヘイブンは大きな問題である。

EUを理想視してTPPに反対することは筋が通るか。TPPは顔ぶれが問題である。TPPは対米従属、中国外しが問題である。実際のTPP反対者は国内の生産者保護が大きいのではないか。TPPは一見すると良いが、対米従属だから反対という立場と、日本のTPP反対派主流とはスタンスが異なるのではないか。食品の安全性の議論もあるが、そもそも現在の日本政府が国内流通の食品の安全性を確保しているのか。

統一市場を作るならばインドと中国が入らなければ効果はない。経済ならばインドや中国である。民主党政権は東アジア共同体を掲げた。グローバリゼーションはある面当然の潮流である。しかし、ウルトラ企業群の下での世界中央集権(新帝国主義体制)の流れには反対しなければならない。

金融はフィクションである。実体経済で動いている資金の何倍もの金額が動いている。過剰な通貨が動いている。バーチャルな過剰資本(金融資本)が弱い場所を見つけて暴れまわっている。将来の金融像を設計し直す必要がある。

柄谷氏は「国家と経済体制と国民」は分かちがたく結びついている。 国家だけをなくそうとしても経済体制が絡んでできない。経済体制だけをかえようとしても、国家や民族が反撃してくる。三位一体の全てを変えていく必要がある」と言う。マルクスはアナーキストではないか。国家だけをなくそうとしても経済体制が絡んでできない。

ソ連が存続していた時代はソ連の問題を批判していた。それに満足していた。ところが、ソ連崩壊後は、とんでもないものが勃興している。社会主義のタガが外れ、資本の本質がむき出しになってきた。これを批判し、新しい社会像を提示しなければならない。資本主義とは違ったシステムを分かりやすく提示する。

次回読書会は4月30日に開催する。次回は本文の内容に入り第一部「カント」を読む。他に予定がない限り、毎週土曜日午後2時から4時に開催する。

希望のまち東京in東部第2回読書会「柄谷行人のカント論」

希望のまち東京in東部は2016年4月30日(土)、第2回読書会「柄谷行人のカント論」を江東区東陽の希望のまち東京in東部事務所で開催した。前回は「イントロダクション――トランスクリティークとは何か」を論じた。今回は第一章「カント的転回」を中心に議論した。

倫理性(カント)と政治経済学(マルクス)の間で不可分の批評の意味を取り戻す。マルクス主義(唯物論)に欠けている主体的・倫理的な契機を見出す企てである。カントはブルジョア哲学の遺物的に扱われた。 柄谷は自らの立ち位置を「アソシエーショニスト=アナーキスト」と認めた上で、現実のアナーキストの無力さと悲劇的な末路を指摘する。実はマルクスはバクーニンのようなアナーキスト(無政府主義者)に親和性を見ていたと指摘する。

マルクスが「安直に資本主義の出口を示さない」ことに着目する。「マルクスは未来について語らなかった」。これは重要な指摘である。革命イデオロギーとは異なる。カントの倫理学の白眉は「他者の視点」の導入にある。ここは分かりやすくワクワクさせられる。

芸術は歴史的に形成された共通感覚に基づいており、普遍性はない。道徳は善悪ではなく、自由の問題である。自由なくして善悪はない。そして自由とは「自己原因的」「自発的」「主体的」と同義であると言う。

法律を学んだ者は刑法の処罰概念で英米型「目的・教育的刑法」とカント(独法型)の「応報刑法」の考え方の間で悩む。日本では前者が進歩派、後者は保守反動と色分けされがちである。しかし、前者には思想改造などに行き着く危険がある。

カントにコミュニストという設定を与えたところに本書の画期性がある。市民連合に柄谷さんが出てきたことに驚いた。左翼でも柄谷さんが出てきたことに嫌な顔をする人もいた。柄谷さんの最初の行動は原発問題だった。『トランスクリティーク』を読んで現代アートが理解できた。人権と人権の折り合いを考えなければならない。『トランスクリティークク』は抽象的な書籍ではない。

既存の左翼は前提をすっ飛ばして『資本論』一巻を読みがちである。閉鎖的な空間を前提として論じている。時間軸を考えていない。現実に追いついていないのではないか。二巻や三巻は時間軸や空間軸が書かれている。

ポストモダン(Postmodern)系の思想家の多くは消えてしまった。柄谷行人が生き残っている理由は古典と向き合っているからではないか。古典と向き合いながら現代と結び付けている。表面的な現代との結び付けではない。古典を堂々と語りながら現代が見える。

マルクスは《発達した資本主義の後に共産主義がくる》と言っている。ロシアや中国は資本主義がなかった。日本も市民社会や権利意識が未成熟であった。主人と奴隷の関係でマルクス主義を読んでいたのではないか。

カントはヘーゲルによって否定された遺物ではない。もう一度カントを読むべきである。ヘーゲル的な乗り越えの仕方はおかしい。カントの二律背反(アンチノミー)はヘーゲル的弁証法で乗り越えられたのか。ヘーゲルの弁証法は主観的な乗り越えでしかなかった。主観的に乗り越えられるものではない。カントの言う「物自体」を見直さなければならない。

カントは独自の表現が多い。理性と悟性は何が違うか、最初に読んだときは分からなかった。デカルトは独自の表現が少ない。デヴィッド・ハーヴェイ『〈資本論〉第2巻・第3巻入門』を読んでいる。未来の人と死者は何も語らない。今いる自分が何をできるのか。

資本主義を礼賛する人々は、資本主義の開発主義、進歩主義を評価する。遅れている人々を進歩させるという発想になる。グローバリゼーションを当然と考える。資本主義社会はある一面《宗教的》な社会である。価値形態のない、貨幣を物神化している。物神性は難しい言葉であるが、英語の表現で理解できる。英語では《フェティシズム》である。だから十分に金を持っていても、貪欲に金を求める。

安直な進歩主義にマルクス主義者は引っかかってしまう。資本主義は進歩主義である。遅れている人々を進歩させるという発想になる。アメリカが体現している。共産主義がアメリカで跋扈する可能性がある。サンダースは新たな社会主義を提示するか。革命は前衛の議論である。大衆を啓蒙するという話になるが、今のアメリカの若者は啓蒙されている訳ではない。

ソ連は国家を克服していなかった。国家社会主義であった。ファシズムも国家社会主義である。ファシズムも労働者の国を作る面があり、あまり変わらない。国家中心でコントロールしようとした。「帝国主義戦争を内戦に!」と第二インターナショナルは第一次世界対戦の兵士(労働者)に激を飛ばしたが、戦争を内戦には転化出来なかった。インターナショナルはナショナリズムを克服できなかった。

佐藤優はソ連の失敗は労働力商品化を克服できなかったことと主張した。人間の労働は貨幣に換算できるものではない。他者への働きかけは人間の本性(ア・プリオリ)である。労働力商品化の次のシステムとして互酬があるのではないか。

市場はフェアでオープンである。資本主義と市場をセットで議論することは誤りである。市場は人類の知恵である。市場は弱肉強食ではない。フェアである。資本主義は弱肉強食であり、狡猾である。資本主義と市場原理主義を混同している。新自由主義者の「市場にすべて任せておけば大丈夫(神の手論)」には注意を要する。

アメリカではトランプ現象が起きている。資本主義が終わるか。共産主義を危険、怖いと考えることが作られたフィクションではないか。ナチスも社会主義と標榜されている。中国は共産党政権国家と呼ぶ。共産主義国家ではない。中国共産党が政権をとっている国である。

資本主義は環境問題の面からも生き残れない。資本主義は成長を前提している。宇宙開発など新たなフロンティアを提示している。資本主義は差違性がなければ発展が止まる。空間的差違性と時間的差違性からこれまで《利潤》を得てきたが、いま、利子率が下がってきている。利子が下がっているということは成長が止まっている。成長の余地がない。ついに、人間的差違性(格差社会)にまで踏み込んでしまった。

カントの世界共和国は、意識的にはEUに近いものではないか。エンゲルスはイギリスを見ていた。エンゲルスは工場経営者であった。ドイツは後発資本主義である。マルクスとエンゲルスは分ける。マルクスはアナーキスト的、エンゲルスは社会民主主義的である。

資本論一巻は今の社会の仕組みを科学的に分析した。マルクスは株式会社に対して好意的である。日本でも労働者の生産管理の議論があった。マルクスの会社へのロマンチシズムや期待は評価してよい。

販売して初めて利潤が生まれる。消費時点の戦い方がある。労働者の戦いと消費者の戦いは重なる。韓国のソンミサン・マウルは一例になる。生協も商業主義的であった。自覚的な消費者と供給者が生まれる。安売りでは戦えない。安い商品を買うと労働力の安い商品を買うことになる。

労働者の問題と消費者の問題を切り離す傾向がある。連携した戦いができないか。福島原発事故以降の闘いで一つになれば力になる。真っ当な金額で福島のトマトを買うという運動が始まっている。これまでの生協運動とは異なる。

日本は韓国や台湾、香港と連帯すべきではないか。日本の市民運動家に韓国や台湾、香港よりも格上という間違った意識がある。「教えて下さい」という姿勢になるべきである。香港や台湾は学生が中心である。

韓国や台湾は共産主義が禁止されている。日本の市民運動は共産主義の親和性を踏み絵のようにしている。市民運動で日本と韓国は共通している。韓国や台湾では独裁に対する拒否感が強い。民主主義を大事にしている。ところが、日本は逆転している。日本は民主主義が左翼運動に位置付けられている。社長になりたい人が市民運動をしても良い。

「国家と資本主義経済とナショナリズムは三位一体」であると柄谷は言う。一つを変えてもダメである。焦り過ぎてダメになった面がある。選挙になると民進党に投票する人は多い。これにつけば何とかなるという発想は危うい。「ねじれが起こせる」ではなく、3分の2を確保できればいいくらいでいい。北海道五区で負けても凹んでいない。

ロシア革命は焦って生まれた。無理やり進めた。爆発する背景はあった。色々な人々がいたが、粛清されていった。ロシア革命の正当性を議論している時代ではない。「スターリンはダメだが、レーニンは正しい」はダメである。レーニンからしてもダメである。そもそもマルクス主義が間違っている。日本共産党は大きく変わっている。市民運動にも逆の硬さがある。枠を作り、線を引く様なことをしなくてよい。

第3回は5月14日午後2時から4時まで希望のまち東京in東部事務所で開催する。第二部「マルクス」を読む。

江東区東陽で柄谷行人読書会

希望のまち東京in東部は江東区東陽の希望のまち東京in東部事務所で柄谷行人『トランスクリティーク』の読書会を開催している。第2回読書会「柄谷行人のカント論」は2016年4月30日に開催された。カントがテーマであったが、議論はマルクスにも及んだ。柄谷のマルクス解釈を素材にマルクス主義について突っ込んだ議論がなされた。

興味深い指摘は、戦後日本の通俗的マルクス主義者が空間軸や時間軸を考えずに議論する傾向があったというものである。この指摘は腑に落ちた。高等教育で新自由主義の学風に触れた立場としては通俗的マルクス主義者と議論しているとギャップを感じることがある。

私は「完全競争市場においては政府の規制がない方が厚生は大きくなる」との理論は正しいと考える。この正しさは「完全競争市場においては」の前提込みのものである。現実の市場は完全競争市場ではなく、レモン市場である。だから東急不動産だまし売り裁判のようなことが起きる。

故に規制緩和一辺倒では上手くいかず、規制強化が必要な分野も少なくない。しかし、これは新自由主義の欠陥ではなく、前提を無視したことによる失敗に過ぎない。この違いを通俗的マルクス主義者は理解しない傾向がある。

新自由主義の学問的な研究が進めば進むほど様々な前提を置いた世界の中で理論を導きだそうとする。これは現実から離れた箱庭のような世界にのみ当てはまる理論ではある。しかし、それをもって通俗的マルクス主義者が新自由主義の学風を現実の役に立たない無意味な思考遊戯とこき下ろすことは反知性的である。モデルを定義して、その中で考えることは学問の精緻化に貢献する。そこが通俗的マルクス主義者に中々理解されない。

そのギャップにもどかしさを感じていたが、時間軸や空間軸を考えていないとの指摘に得心した。モデルを作って、その中で議論するという知的訓練から最も遠いところに存在するのかもしれない。よく「マルクスを再評価しなければならない」と言われるが、マルクスを再評価したい人こそ新自由主義の学風に触れてからマルクスに立ち戻ると良いかもしれない。


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