林田藩ゆかりの小栗上野介は幕府の堤防

林田藩ゆかりの幕臣に江戸幕府勘定奉行・小栗上野介忠順(ただまさ)がいる。忠順は林田藩八代藩主・建部政醇の娘・道子と結婚した。政醇の別の娘・はつ子は旗本の蜷川親賢に嫁いだ。その婚礼調度の蜷川家伝来雛道具が江戸東京博物館に所蔵されている。

「忠順は、早熟、雄弁で幼少時は「天狗」と呼ばれ、14歳のころ播州林田藩主建部政醇を訪れ、悠然とたばこをふかし、たばこ盆をたたきながら、「船を作り海外に進出すべきだ」と論じ、周囲を驚かせました。23歳で建部家の次女道子を妻に迎えましたが、大変な愛妻家だったといいます。」(福田嘉文「忘れられた幕末の偉人─小栗上野介」江戸東京博物館友の会会報『えど友』第69号、2012年、6頁)

林田藩士は以下のように評していた。「未だ十四の少年にてありながら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつつ、一問一答建部政醇藩主と応答し、人皆その高慢に驚きながら、後世には如何なる人物となられるであろうかと噂しあった」(蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院、1928年)

小栗は幕府を崩壊から守る堤防になろうとした人物である。その言葉に「病の癒ゆべからざるを知りて薬せざるは孝子の所為にあらず」がある。これは現代の過少医療・治療中止への批判にもなる。これは林田医療裁判にも重なる。

小栗の業績の一つが横須賀造船所である。造船所建造に対して、勝海舟が海軍500年説の立場から反対したエピソードは有名である。勝は以下のように主張した。軍艦は数年で建造できるとしても、海軍を運用する人材育成には時間がかかる。英国でも300年要しており、日本では500年かかる。それ故に人材育成を優先すべきと。

その後、尊皇攘夷派と気脈を通じていると見なされた勝は失脚し、小栗の提言が採用されて横須賀造船所は建設に着手した。幕府の瓦解後は明治新政府に引き継がれ、帝国海軍の重要施設となった。

日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎は戦後、小栗の遺族に「日本海海戦の勝利は小栗が作った横須賀造船所のお蔭」と礼を述べた。小栗の先見性が認められた瞬間である。司馬遼太郎も小栗を「明治の父」と評している。

ところが、日本は日露戦争の勝利に驕って無謀な侵略戦争に突き進み、国土を焼け野原にしてしまった。ここまで考えると、人材育成を先とした勝の言葉も納得できる。明治になって日清戦争など日本の帝国主義的政策に反対した勝の主張も合わせると一層含蓄がある。

このように長期的視点に立てば両者の主張は共に尤もであるが、当時の視点に立てば小栗に軍配上がる。国内に造船所がなければ、船舶は海外から購入しなければならない。実際、幕末は幕府も諸藩も海外から船舶を購入していた。しかし、船舶は購入したら終わりではない。故障すれば修理しなければならない。

造船所は新たに船舶を建造するだけでなく、既存の船舶を修理する場所でもあった。消耗品である砲弾や弾丸も作る総合工場とする構想もあった。実際、小栗が訪米時に見学したワシントン海軍造船所が同じであった。造船所で既存の船舶をメンテナンスできれば、外国に依頼する費用と時間を節約できる。

旧日本軍の大きな欠点として兵站の軽視が挙げられる。造船所を提言した小栗は日本人に欠けがちな視点を有していた稀有な人物であった(林田力「小栗忠順と勝海舟の横須賀造船所論争評価に欠けた視点」リアルライブ2010年10月13日)。

小栗は戊辰戦争で官軍を迎撃する策を提案したが、恭順派の徳川慶喜に否定された。慶喜から罷免されたため、知行地の上野国群馬郡権田村に土着し、水路を整備したり、塾を開いたりしたりするなど静かな生活を送っていた。ところが、官軍に捕縛され、取り調べもなされぬまま斬首された。冤罪である。明治政府にとって小栗が都合の悪い人物であったかが分かる。



新着記事


林田 力 公式Twitter


TOP