和田心臓移植から50年 加速されるいのちの切り捨て

シンポジウム「和田心臓移植から50年 加速されるいのちの切り捨て」が2018年11月18日(日)、専修大学神田校舎で開催された。患者を置き去りにした医療の実態が浮かび上がった。林田医療裁判と重なる問題である。私は質疑応答でキーパーソンについて質問し、フリーライターの守田憲二氏は家族の総意が必要と回答した。キーパーソンは連絡窓口に過ぎず、キーパーソンに独断で治療方針を判断する権限を与えたものではないことになる。
質問「病院の実務だとキーパーソンというのを定めて、キーパーソンと病院だけで決めてしまうことが往々にしてあります。病院にとって、臓器移植をやりたいとか無用な治療をやりたくないとか、そういう方向に迎合するような人をキーパーソンとして認めて、その人の意見しか聞かないで同意を得たという話に進むと思うのですが、それに対して家族はどう対抗できるでしょうか」
回答「お答えは、家族の総意をもってやらなければいけないということです」(市民シンポジウム講演録「和田心臓移植から50年 加速されるいのちの切り捨て」41頁)

このシンポジウムは臓器移植法を問い直す市民ネットワーク、日本消費者連盟、DNA問題研究会、バクバクの会~人工呼吸器とともに生きる、脳損傷による遷延性意識障がい者と家族の会「わかば」が共催した。3名が講演した。
小松美彦「和田移植とその歴史的構造」では和田心臓移植の問題として、自発呼吸も心音もあるのに絶望的と判断され、生きているうちに心臓を摘出された蓋然性が高いことと指摘する。心臓移植は、それ自体是非が問われるが、現実の和田心臓移植は心臓移植の進め方としても問題がある。
ここに現実の医療問題を追及する場合の難しさがあると感じた。「心臓移植は許されない」と「心臓移植の要件や手続きから逸脱している」という二つの方向からの批判が成り立つ。これら二つの論点をそれぞれ独立して吟味すれば良いが、ごっちゃにされがちである。追及される側は意図的にごっちゃにして、批判側が論理矛盾しているように見せて責任逃れする。この克服が大きな課題である。
「和田移植とその歴史的構造」は、和田心臓移植は七三一部隊や九州大学医学部生体解剖事件とつながっているとも指摘する。この種の指摘は珍しくない。一方で「和田移植とその歴史的構造」は戦争に帰してはならないとも主張する。全ては医療・医学の構造的問題であり、人間の命と体への権力問題である。患者は実験材料であった伝統が医学にある。
現代医療の闇を七三一部隊などの延長線上に位置付けることは、安易に過去を水に流す非歴史的な日本では重要な視点である。しかし、そのような論調は戦争が悪いで終わってしまいがちである。「和田移植とその歴史的構造」の視点は新鮮である。
児玉真美「グローバルに進むいのちの切り捨て」は「死ぬ権利」論と「無益な治療」論が両輪になって命の選別と切り捨てを加速していると主張する。
「死ぬ権利」論の恐ろしいところは、それがデフォルトになってしまうことと感じた。もともと「死ぬ権利」は自己決定権が根拠になっている。それならば生きたい人には生きる自己決定権を尊重することが相互主義である。
もっと恐ろしいものは「無益な治療」論である。患者や家族が望んでいても、治療の一方的な停止や差し控えの決定権を問答無用で認める論拠になっている。日本では、この「無益な治療」論による医療サイドの押し付けが深刻である。死ぬことだけ自己決定権を持ち出すことは片寄っている。結局、日本は昔から集団主義の村社会であり、個人の自由を認めていないだけである。本当の意味での自己決定権が対抗する拠り所になるのではないか。
守田憲二「脳死と判定された人は生きている」では、基準に基づかない粗雑な脳死判定がなされていると指摘する。脳死判定を誤る原因として薬物の影響がある。麻酔や鎮痛剤は脳神経の機能を低下させて脳死と似た状態をもたらす。脳死判定から長時間生存し、循環や呼吸、内分泌機能が良好な状態に保たれていれば、薬物が排泄され、脳死判定基準を満たさなくなる患者が増えるとする。



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